関口益男 益三郎の長男として生まれ家業の歯科医院の後を継いだ。
少年のころからバイオリンの音色に特異な感性を発揮し、桐生一のバイオリンの名手(私の結婚式での恩師岡部弘道先生の言)と言う人もいた。初代コロンビアローズの斉藤まつ枝さんもその一人で、閉院後の我が家の外に立って診療室で父が弾くバイオリンの調べに聞き入っていたそうだ。

父益男とバイオリン製作者宮本金八氏が父のために名器(亡父の言)151号の製作に踏み切る経緯につ いては、追憶十話その9:「バイオリン製作者 宮本金八」、「父の遺稿」、「富士通川崎病院」を繋ぐ奇縁 及び、父が生前に書き残した自伝 “A Mysterious Episode of Viorin” で触れたい。

また父は、小学校のとき鉄棒で落下し強く背骨を打った後遺症で、学生時代に脊椎カリエスを患った経験から、日本人の体位と健康に関して危機感を抱き、感染症のみを医療の対象とし、健康維持とそのために不可欠な栄養バランス、運動および体液循環の重要性を軽視する近代医学の弊害を是正すべく、自身の体験に基づく警告の書 『医学の革命』 を著した。 これを一大国民運動にすべく、蓮沼門三白石元治郎田中次郎左衛門 らの支援を得て時の文部大臣、陸軍大臣らに直訴したが容れられず、桐生に帰り田舎歯科医師として生涯を終える。 昭和42年没。 享年59歳。

歯科医師としての父は、祖父の生き方に倣い、原田祖岳の高弟、安谷白雲 老師に師事して禅に傾倒する一方、小学校の校医としては規則違反を承知で無料診療を行う、貧しい患者からは診療代を請求しないといった調子で祖父同様、恬淡とした生涯を送った。

その父が楽しそうに語ったことがある。 父は日頃から自分の患者で郵便配達夫の小野さんの人格に傾倒していたが、あるとき一首思いついたといって 『人皆が金々(カネカネ)という世の中に瓢孤と生きる小野の真人(しんじん)』 なる狂歌を進呈したところ、「家宝にします」 と言って感泣されたそうだ。

末期癌の臨終に駆けつけた叔父増田健太郎に言い残した辞世
『身はたとえ病の床に朽ちるとも心にかかる雲切れもなし』

上の句は、生前敬慕していた松蔭の辞世身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちるとも 留め置かまし 大和魂 の本歌取りであろうと思われるが、果たして本人がそれを意識していたかどうかは誰も知らない。


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