その・・・亡父の夢


「バイオリン製作者 宮本金八」、「父の遺稿バイオリン奇譚」、「富士通川崎病院」 を繋ぐ奇縁


発端

桐生の市制施行の年(大正10年:1921年)、旧制桐生中学へ入学した私の父関口益男は、手術のため1年留年せざるを得なくなり、やむなく3年生になるとき太田中学に転校した。

そこで、毎日、学校から帰ると、8歳のとき祖父にねだって買ってもらった安物のヴァイオリンを弾いていた
(注)が、周りに五月蝿がられるので、はじめは墓地で、それでも五月蝿いと言うので、最後は暗闇の金山の頂上にある新田神社の境内で弾いていたそうだ。 ある晩、いつものように、山頂の鳥居の前で弾いていたところ、暗闇の中から誰かが近づいてくる音がしたので、何者!と思わず弓を突き出して身構えると、同じ下宿先にいた満州帰りの元軍人だったという。
結局、その人から、壊れたロシア製のヴァイオリンを譲り受けることになるが、これが、この挿話の発端である。

(注: 家の斜め前に電気館という映画館があり、そこで楽士たちが演奏するのを聞いたのがきっかけだったという。 その映画館は、桐生電報電話局のビルと隣接していたため昭和20年の初めに強制疎開で取壊されてしまったが、私も5歳くらいのとき35銭の入場料を払って見に行った記憶がある。 メッサーシュミットが活躍する場面では館内が沸いた!)


壊れたヴァイオリンの修理を、当時、日本一と言われた宮本金八氏に頼みに行く経緯。

宮本金八氏が、大阪で行われるストラディバリウスを使用したコンサート(父の遺稿によれば “by Mr. Kishi”)に招待され、その晩は、演奏者の自宅に一泊する予定だったのに、どういうわけか東京に戻らなければならないような気がして夜行列車で帰京し、自宅に何も異常が無いことを確かめてほっとしたまさにそのとき、玄関のベルが鳴り、痩せ細った田舎青年が、壊れたバイオリンを持ってたずねて来た・・・

宮本氏に件のバイオリンがアマチュアの作で、しかも致命的なダメージを受けていると聞いて落胆するが、にも拘らず全力を挙げて、しかも無償で修理すると言われ狂喜すると同時に驚愕したという・・・


父が戦時中は遠ざかっていたヴァイオリンを再び弾き始める経緯。

宮本金八氏から、件のロシア製のヴァイオリンがアマチュアの作で良い音は期待できないことを知らされ落胆したが、それと同時に、同氏から、父のために新しく一台のヴァイオリンを作ることを約束され、感激したという。

昭和24年、完成した151号を受け取るに当たって、当時の我が家にとって、精一杯だった何がしかの代金を差し出したところ、『 これは、あなたに良い音のヴァイオリンを弾いて頂きたいから作ったもので、お金で売るために作ったものではありません。 私は今までに、あなたほどヴァイオリンの音を愛する人に会ったことがありません・・・私はバイオリン製作者であってバイオリニストではありません。バイオリン製作者にとって一番大切なものは演奏技術ではなく音色です。 あなたは、その音色が分かる方です・・・・・』 と言って受け取らなかった。

同年12月に死去した祖父は、息子に対する名工の温情に涙し、病床に身を起こして151号に両手を合わせたそうだ。

私たちは、戦後ずっと父の弾く151号の音を聞きながら育った。 いまでも、
父の弾く G-線上のアリアやチャイコフスキーのコンチェルト第2楽章 のビブラート音が耳に残っている。

中学生時代に、一度、父と一緒に多摩川園前まで行ったことがある。(父が東横線の北側の坂道を登って宮本氏に151号を預けに行く間、兄と私はずっと多摩川園のお化け屋敷で遊んでいた。)


母に同行して宮本邸を訪ねる経緯

昭和42年(1967)に父が他界したが、父が病床にある間、暫く放置されていた151号の修理を依頼するため母と2人で、宮本金八氏を訪ねた。 あいにく、氏は入院中のため不在で、夫人に案内された応接間には弦楽四重奏用の4点セットが飾られていた。

そのころ、同氏は90歳を超えておられたと記憶するが、入院先を聞いて驚いた。 何と、私の勤務先に付設された富士通川崎病院だった。(川上病院長や富士通端末機部門の母体となる黒澤通信工業の創立者である黒澤氏が宮本製バイオリンの愛好家だったらしい。)

その足でだったか、日を改めてだったか良く覚えていないが、母と2人で病室の宮本氏をお見舞いした。 2人とも、宮本先生(我が家では、いつもそう呼んでいた)にお会いするのはこれが初めてだったが、いつも父から話を聞き、父宛の手紙(封書や葉書)を見ていたので、とても初対面と言う気がしなかった。 そのとき、どんな話をしたのか、また、先生の退院後に改めて多摩川園のご自宅にお伺いしたのかどうかも良く覚えていない。


父の遺稿をWEB公開する動機

上記151号に関する経緯は、父の未発表の遺稿 “ A Mysterious Episode of Violin ” に詳しい。

生前に、一度米国での出版を試みたが、リライトが必要だとの反応だった。 私もそれは必要だと思っていたが、未着手のまま今日に至っている。


しかし、15年前(1995年)、不思議な巡りあわせで東京情報大学に転職し、はからずもWEB技術を身につけざるを得なくなった。 世の中、万事 『塞翁が馬』 とはこのことか、お蔭でリハビリ中の身ながら右手の人指し指一本で文字が書ける

これからは体力の許す限り、父の遺稿をホームページに公開していくことにしよう。




(未完)


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