関口益照のルーツ
関口本家 群馬県邑楽郡萱野村(現在は邑楽郡邑楽町萱野、邑楽郡千代田町萱野に分割されており、そのうちの何処か未確認)にある菩提寺(曹洞宗洞源寺?)の過去帳によると、室町時代に上杉家の署司(足軽頭)であった関口某が同僚の荻野某、間仲某とともに主君に願い出て帰農し、利根川の中洲に萱野村を拓いたとある。

その過去帳は、私もかつて(昭和30年頃だったか)父の従兄弟に当たる親戚の間中某(みんな篭屋のせーちゃんと呼んでいた)が、桐生の我が家に大発見だと言って持って来たのを実際に見たことがある。
江戸時代の文書で3家の由来を縷々述べた上、寺の住職、当地の代官および3家の本家・分家の署名と捺印がずらりと並んでいたのを覚えているが、その後その文書がどうなったか知らない。

本家の消息も一度調べてみたいと思っていたが、それも果たせぬまま今日に至っている。
祖父
本家の二男として生まれ、桐生町に歯科医院を開業するが、診療は程々にして『秋石』の雅号で書画骨董に勤しむ一方、曹洞宗の高僧 原田祖岳 老師来桐の折は、市内養泉寺にて、田中智学住職(慶大教授)とともに泊り込みで参禅するという悠々自適の生涯をすごした。 昭和24年没。 享年70歳。

自らも友人達の求めに応じて何幅かの山水画を描いているが趣味の域を出ず、むしろ桐生に逗留する日本画家のパトロンとして、多くの画人と交流した。

少年のころからバイオリンの音色に特異な感性を発揮し、桐生一のバイオリンの名手(私の結婚式での恩師岡部弘道先生の言)と言う人もいた。

父益男とバイオリン製作者宮本金八氏が父のために名器(亡父の言)151号の製作に踏み切る経緯につ いては、追憶十話その9:「バイオリン製作者 宮本金八」、「父の遺稿」、「富士通川崎病院」を繋ぐ奇縁 及び、父が生前に書き残した自伝 “A Mysterious Episode of Viorin” に詳しい。

また父は、感染症のみを医療の対象とする近代医学の弊害を是正すべく、自身の体験に基づく警告の書 『医学の革命』 を著した。 これを一大国民運動にすべく、蓮沼門三白石元治郎 らの支援を得て時の文部大臣、陸軍大臣らに直訴したが容れられず、桐生に帰り一田舎歯科医師として生涯を終える。 昭和42年没。 享年59歳。

益男の次男として生まれ、関口家ではただ一人のサラリーマンとなり、略歴に記したような思いがけない道を歩むことになった。


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