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その5・・・1962年63年の夏


「妙高高原イモリ池」、「大石泰彦ゼミの仲間達」、「慶大軽音研のハイカラさん達」 を繋ぐ思い出



(63年)参加者

大石先生、
4年生: 越智伸男、田井野宏(故)、牧野良雄、森田青平、小西靖生、関口益照、、、
3年生: 太田、山下、中光(故)、、、


               ゼミ合宿記念集合写真


池ノ平寮の前で、大石先生を囲んで3年生と一緒に

結果的には、3年生の方が出世した?

実際、この写真にも載っている太田君は筑波大の教授になったし、山下君は日銀の局長になった。 他の面々もそれなりの身分に出世している。 我々も世間的には、まあまあの線まで行ったつもりだが、その点では3年生に一歩譲らざるを得ない。 今から考えればあの頃がエコノミスト一辺倒時代の始まりだったのかもしれない。

            


テキスト: Business Cycles and Economic Growth :Dusenberry (景気循環と経済成長)

・大石先生は、ゼミの輪講中も越中褌一本で胡坐をかいたまま。難しい微分方程式の質問を投げてくる!
・途中、外に女子学生の賑やかな声が聞こえてくると話がそれて・・・
・越智、田井野は、妙高登山に挑戦。登頂に成功。・・・日本海を眺めてきた・・・とか。
・時折、いもり池でボートを漕ぐ。
・夕食後、満腹しないので近くのロッジに行きラーメンを食す。バイトのウェートレスが綺麗だった。
何日目かに行ったら慶大軽音研の合宿で貸切られお預けを食わされた。

華やかな雰囲気に圧倒された。(私だけか?)
誰かがアタックしたと言う話は聞かない。
・・・ただそれだけのこと。

ゼミの面々は、経済学(注)のほか、それぞれ自分の世界を持っており、例えば田井野はアイスホッケー、片山は謡曲、小田はマージャン、牧野は柔道、越智はヴァイオリン、小西はゴルフといった調子だった。 私はといえば、図書館で経済学と法学以外の本(バートランドラッセルや科学哲学等)を読んだり、文学部の印哲や音楽論の講義に紛れ込んでいたりした。 森田が何をしていたかは知らないが、その後の進路や飲み会での発言を聞くかぎり、少なくとも我々よりは真面目に勉強していたらしい。

とにかく当時、経済学部を第一志望に選ぶのは、いわゆるまともな学生ではなかったらしい。
殆どの学生は法学部志望で、経済学部を志望するのは、おちこぼれか確信犯(マルクス主義者かごく少数の近経派)しかいなかったようだ。 私ももし小西に誘われなかったら、文学部か理学部に転科していたろう。 ただし、1960年度の新入生には例年になく経済学部の志望者が多かったと駒場の関係者が言っていたという話を誰かから聞いた記憶がある。 きっと高度成長の兆しを敏感に察知した連中がいたのだろう。

そういえば、日銀の経済学部卒採用枠も例年になく多かったとか(それまではとびきりの秀才1〜2名のみ。 足りなければ大蔵省からの滑り止めで埋めればよかった! 我々が今でも付き合っていられるのは、確信犯同士の同志的結束の然らしむる所以かもしれない。)


(注: 大石先生に言わせれば、学部生の勉強など学問の名に値しないとか。 したがって我々は誰もいわゆる卒論というものを書いた経験がない!





(未完)



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