1962〜63年度 東大経済学部大石ゼミ
1963年ゼミ合宿(妙高高原池の平)
妙高高原池ノ平の『いもり池』
遠方に見えるのは妙高山。 越智と田井野は完全武装のいでたちで山頂を極めてきたとか。・・・
ゼミ合宿記念集合写真
池ノ平寮の前で、大石先生を囲んで3年生と一緒に
本郷にて1
田井野宏君と 小西靖生君と
本郷にて2
三四郎池にて(小西、田井野と・・・何を話していたのか)
本郷にて3
1964年3月卒業記念旅行(石廊崎)
石廊崎へ日帰りの卒業旅行(風が強かった)
1964年3月卒業記念集合写真
大図書館の前で大石先生を囲んで3年生と一緒に
卒業アルバムを手に
(向かって左から)田井野、私、越智
あれから50年、すでに田井野は逝ってしまた・・・・・
ゼミの面々は、経済学(注)のほか、それぞれ自分の世界を持っており、例えば田井野はアイスホッケー、片山は謡曲、小田はマージャン、牧野は柔道、越智はヴァイオリン、小西はゴルフといった調子だった。 私はといえば、図書館で経済学と法学以外の本(バートランドラッセルや科学哲学等)を読んだり、文学部の印哲や音楽論の講義に紛れ込んでいたりした。 森田が何をしていたかは知らないが、その後の進路や飲み会での発言を聞くがぎり、少なくとも我々よりは真面目に勉強していたらしい。 とにかく当時、経済学部を第一志望に選ぶのは、いわゆるまともな学生ではなかったらしい。 殆どの学生は法学部志望で、経済学部を志望するのは、おちこぼれか確信犯(マルクス主義者かごく少数の近経派)しかいなかったようだ。 私ももし小西に誘われなかったら、文学部か理2に転科していたろう。 ただし、1960年度の新入生には例年になく経済学部の志望者が多かったと駒場の関係者が言っていたという話を誰かから聞いた記憶がある。 きっと高度成長の兆しを敏感に察知した連中がいたのだろう。 そういえば、日銀の経済学部卒採用枠も例年になく多かったとか(それまではとびきりの秀才1〜2名のみ。 足りなければ大蔵省からの滑り止めで埋めればよかった! 我々が今でも付き合っていられるのは、確信犯同士の同志的結束の然らしむる所以かもしれない。) (注: 大石先生に言わせれば、学部生の勉強など学問の名に値しないとか。 したがって我々は誰もいわゆる卒論というものを書いた経験がない!) |
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