急性大動脈解離から生還して

― 散歩とウエブ自分史作りに明け暮れる日々

『経友』(東大経済学部同窓会誌) No.186/2013.6 寄稿

 関口益照(昭39/3 経済学科)


 4年前に大病をして以来、一被介護老人と成り果て、何もこれといったことをしていないので、一旦は辞退しようかと躊躇い、暫く返信を怠っていました。そうこうするうち、この病気で生き残った人が稀な上、さらに、生還の是非を問うているウェブサイトは皆無に近いことに思い至ったので、その実例としての希少価値が有りそうだと思い直してお受けした次第です。

ブログ「病床日記・・急性大動脈解離から生還して」開設の動機

平成20年11月19日(2008.11.19)早朝、突発的に急性大動脈解離(A型)を発症、意識不明まま16℃の超低体温下で数時間におよぶ緊急手術を受けることとなりました。幸か不幸か一命を取り止めたものの、その後4ヶ月間の入院治療と1年以上に及ぶ何時果てるとも知れぬいわゆるリハビリ生活の中で色々と考えさせられました。そこで、平成22年2月から、"心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく”ブログに書き綴って置こうと決心した次第です。

上記"幸か不幸か"という文言で救命一本槍の現代医療や社会通念に対する私なりの疑問を呈した心算です。以下にその一端を紹介してリハビリ生活の近況報告に替えさせていただきます。


2010年3月3日(水)の日記
大動脈置換手術&多臓器障害&脳梗塞

大動脈を人工血管に置換する際、人工心肺に切り替えるが、その間、全身にわたる虚血状態が生じ、不特定多数の臓器がダメージを受ける。

ダメージの内容も程度も虚血の部位と程度により千差万別である。私の場合、植物状態1週間、排泄障害(要するに垂れ流し)4ヶ月、1年以上たった今も手足の痺れや麻痺のほか息切れや動悸に悩まされている。

医師の言う手術の成功とは、単に死ななかったと言うだけで、それ以上でも以下でもない。
たいていの場合、救命ばかりクローズアップされているが、“それに随伴する後遺症”の惨状は故意か否かは敢えて問わないが殆ど無視されている。

妻から聞いた私の息子(IT企業のSE)と執刀医のやりとりを以下に記すが、これが正しい説明である。

 医師 “ 手術は成功しました ”
 息子 “ 要するに救命したと言うことですね ”
 医師 “ そのとおりです ”

息子は、これから後に続くであろう一家の苦難を覚悟したに違いない。

無責任なTVが取り上げる際も非常に確率の低い幸運なケースがいかにも一般的なケースであるかのように説明される。
虚血性脳梗塞及び臓器障害と言う表現も誤解惹起的である。私の場合など、看護師ですら『単なる脳梗塞患者』だと誤解する者が多く、担当者が変わる度に説明しなければならなかった。

正確には、“人工心肺下での長時間に及ぶ低体温手術に伴う虚血状態”を主因とする“全身に及ぶ多臓器障害”と言うべきで、脳梗塞なんぞは、単に虚血状態によって障害を受けた多臓器のなかの一臓器に過ぎない。

日経新聞が作家の立松和平氏の死因を単に『多臓器不全』と報じていたが、まったく説明になっていない。多臓器の障害が突然、同時に起こるはずが無い。

真の死因は飽くまでも、『大動脈置換手術に伴う虚血状態を主因とする多臓器不全』である。病院や新聞社は何を恐れているのだろうか。医療事故でなくても当然ありうるケースなのだから堂々と正確な報道をすべきだ。地下の立松氏もきっとそう言うに違いない。


2010年10月9日(土)の日記
最近の精神状態

最近は、以前より手足が動くようになってきた所為か、新聞やTVで気になる話を目にすることが多く、つい要らぬことまで書いてしまう傾向がある。

少し心配になって来たので、先日、過去の書き込みを点検したところ、病床日記であるにも関わらず病気に関係のない記事ばかりで我ながら気の引けること夥しい。

しかし、手術の後遺症である虚血性脳梗塞の所為で心身の状態がままならず、とくに鬱状態の時は、いよいよ死期が近いと思い込み、今のうちに書いておかねばという焦りが先にたってしまう 。
そういう意味では、これも病床日記の一部だといって差し支えないのかもしれない。

とにかく、PCで入力している限り、普通の人が3秒で答えることを3分かかっても、3分で済む話をやっとの思いで3週間かけて書いてもまったく分からないのだから、十分注意している心算でも、いったいどんな誤解を生んでいるか分かったものではない。


2010年11月19日(金)の日記
急性大動脈解離(A型)からの生還2周年

今日で急性大動脈解離(A型)から生還して2周年目を迎える。 発症したのが2年前の今日午前9時ごろだったというから、確かに2年前の今朝、丁度今頃、我が家はパニック状態だったのだろう。"だろう"と言うのは、私自身に前後の記憶が全くないからだ。

改めて妻が主治医に言ったという 『・・生まれたばかりの子供を育てるつもりで、2年間は覚悟しています・・』とかいう言葉の重みを実感する今日この頃である。 我ながら未だに可愛げのない嫌味な夫であるが、感謝の気持ちだけは忘れたことはない。

というわけで、先週末から体調の如何にかかわらず、毎日一時間くらいの散歩に出かけることにした。 "体調の如何にかかわらず"と言う以上、これまでとても無理だろうと思っていた状態でも、とにかく支度をして"しゃにむに"出かけている。とにかく、毎日時計のように昼になったらトボトボと散歩に出かけることにして一週間経つが、気候がよい所為か今の所続いている。当然のことながら、"飼い犬"と同じで"ご褒美の餌"(インセンティヴ!)が欠かせない。一つは公園で小さな子供たちの元気な姿を見ることだ。幸い怖がられることもないので楽しみにしているが、時には誰もいないことがある。そのため、家を出るとき五百円玉か千円札を一枚貰っておき、行き先の喫茶店で ホットドッグなどをもぐもぐと30分かけていただくことにした。


2011年7月2日(土)の日記
散歩で気晴らしの筈が・・・「我関せず焉

リハビリ中の苦しい散歩で、例外なく嬉しくなるのは幼児が公園で遊んでいるのを見ることである。逆に例外なく気力を萎えさせ帰路の体力も覚束なくさせるのは、コーヒーショップで並外れて厚かましい中高年女性の長広舌に曝された時である。その苦痛は放射能の内部被爆も斯くやと思われる程だ。不運にもこういう気に食わない輩に出会ったとき、心身を平静に保つにはどうすればよいか、これまでに二つの呪文を思いついたことは既に述べた。

一つは、
「燕雀安知鴻鵠之志哉」(えんじゃくいずくんぞ・こうこくのこころざしをしらんや)
もう一つは、
「縁なき衆生は度し難し」(えんなき・しゅじょうは・どしがたし)
であるが、いずれも、どうも相手を意識しすぎているようで、腹の虫が治まってくれない。
この歳になっても好悪の感情に振り回されるとは・・・情けないことではある。

そこで今度こそと思いついたのがこれである。
「我関せず焉」(われ・かんせず・えん)

これでどうだと言いたいところだが、如何せん不快感は治まっても気力は湧いてこない。
やはり、一番元気が出てくるのは公園で駆け回る幼児の声をきくことだ。

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
・・・『梁塵秘抄』


2012年11月19日(月)の日記
急性大動脈解離(A型)からの生還4周年

手足の筋肉運動は、かなり回復してきたが、極めて不安定、且つ緩慢なので、大通りなど信号が変わらないうちに渡りきれることはあまりない。その意味でも杖なしでは運転者が気を遣ってくれないので出かけられない。

以上は眼に見える症状なので他人に説明する必要がないが、その他に長時間の超低体温手術の後遺症は、全身に渡って山ほど有り、苦痛と不快感は一向に去らない。

主な症状は、

? 周期的に襲ってくる鬱症状や心悸亢進。毎日、毎週、毎月、季節の変わり目・・の波がある。
? 言おうと思っていることが旨く言えず、相手との会話がちぐはぐになりがちなので、面と向かっては時候の挨拶くらいしか出来ない。電話応対も事実上不可能である。(PCでは、ゆっくり時間を掛けて推敲できるので一応まともに会話できている心算であるが、一通のメールの返事が数週間後になることもある。)
? 低体温手術中に起きた虚血状態に起因する下半身の皮膚障害(靴擦れ、下着擦れの慢性化)で長時間の歩行や着席に苦痛を伴う。したがって、旅行や会合への出席は事実上不可能である。

どれも、命には別状がないとのことで、すべて専門医の守備範囲外。当然と言えば当然であるが、今後暫くの間増える一方のこういう半病人が次の世代の足を引っ張ることの無いよう祈るのみ。


2013年3月22日(金)の日記
今年も同窓会出席を断念・・後遺症の伏兵、鬱病


先週の金曜日には、中学の同窓会の案内メールに欠席の返信を出したばかりだが、今日は、その2日前に予定されている大学の同窓会(1960年入学文?−6組)の案内メールにも最終的に欠席の返事を出した。中学の方はこれで4年連続、大学の方は、3年連続の欠席となる。

ここ数ヶ月、体力は確実に回復してきているのに気力がそれに伴わないのは如何ともしがたい。
体重を例に採ると、運動能力は別として、発症前54キロ→手術直後40キロ台前半?→3年後48キロ→現在50キロと回復(?)した。娘の言によれば、ICUで植物状態だったときの私は、まるでアウシュビッツ(のユダヤ人のよう)だったそうである。個室に移されて意識が回復した頃も、妻と交代で寝ずの看病を続けながら "お父さんにはお尻がない!"と言っていたことを思えば良くぞここまで回復したと言うべきだろう。しかし、たえず鬱の通奏低音に曝されながら生き続ける綱渡りがいつまで続けられるか甚だ心許ない。

そうこうするうちにも級友達が、一人、また一人と去って逝く。



 何時だったか、大石ゼミの友人達が茅ヶ崎の我が家に見舞いに来てくれたとき、嘗て、脳梗塞の後遺症で鬱病を経験した一人が、「関口、お前、鬱病には、ならないのか、あれは苦しいぞ・・とにかく死にたくなる・・」と言っていたのはこのことかと骨身に染みて分かった気がします。もし彼からそのことを聞いていなかったら、果たしてこうして耐え続ける覚悟が出来たかどうか・・。持つべきものは友人だとつくづく思う今日この頃です。

 3年前に、ウエブ自分史 『一期一会 Our Eternal Moment』 を開設し、少年時代から駒場時代までの思い出を書き綴って来ましたが、半年前に本郷へ移った段階で息切れしてしまいました。しかし、今回の寄稿を機に、やはり、本郷での思い出を書き残しておかねばという気持ちになりました。 4年間の思い出を駒場と本郷に切り離すことは出来ないことに気付いたからです。



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