急性大動脈解離から生還して ― 散歩とウエブ自分史作りに明け暮れる日々 『経友』(東大経済学部同窓会誌) No.186/2013.6 寄稿 上記"幸か不幸か"という文言で救命一本槍の現代医療や社会通念に対する私なりの疑問を呈した心算です。以下にその一端を紹介してリハビリ生活の近況報告に替えさせていただきます。 大動脈を人工血管に置換する際、人工心肺に切り替えるが、その間、全身にわたる虚血状態が生じ、不特定多数の臓器がダメージを受ける。 ダメージの内容も程度も虚血の部位と程度により千差万別である。私の場合、植物状態1週間、排泄障害(要するに垂れ流し)4ヶ月、1年以上たった今も手足の痺れや麻痺のほか息切れや動悸に悩まされている。 医師の言う手術の成功とは、単に死ななかったと言うだけで、それ以上でも以下でもない。 最近は、以前より手足が動くようになってきた所為か、新聞やTVで気になる話を目にすることが多く、つい要らぬことまで書いてしまう傾向がある。 今日で急性大動脈解離(A型)から生還して2周年目を迎える。 発症したのが2年前の今日午前9時ごろだったというから、確かに2年前の今朝、丁度今頃、我が家はパニック状態だったのだろう。"だろう"と言うのは、私自身に前後の記憶が全くないからだ。 リハビリ中の苦しい散歩で、例外なく嬉しくなるのは幼児が公園で遊んでいるのを見ることである。逆に例外なく気力を萎えさせ帰路の体力も覚束なくさせるのは、コーヒーショップで並外れて厚かましい中高年女性の長広舌に曝された時である。その苦痛は放射能の内部被爆も斯くやと思われる程だ。不運にもこういう気に食わない輩に出会ったとき、心身を平静に保つにはどうすればよいか、これまでに二つの呪文を思いついたことは既に述べた。 一つは、「燕雀安知鴻鵠之志哉」(えんじゃくいずくんぞ・こうこくのこころざしをしらんや) もう一つは、 「縁なき衆生は度し難し」(えんなき・しゅじょうは・どしがたし) であるが、いずれも、どうも相手を意識しすぎているようで、腹の虫が治まってくれない。 この歳になっても好悪の感情に振り回されるとは・・・情けないことではある。 そこで今度こそと思いついたのがこれである。 「我関せず焉」(われ・かんせず・えん) これでどうだと言いたいところだが、如何せん不快感は治まっても気力は湧いてこない。 やはり、一番元気が出てくるのは公園で駆け回る幼児の声をきくことだ。 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。 ・・・『梁塵秘抄』 2012年11月19日(月)の日記 急性大動脈解離(A型)からの生還4周年 手足の筋肉運動は、かなり回復してきたが、極めて不安定、且つ緩慢なので、大通りなど信号が変わらないうちに渡りきれることはあまりない。その意味でも杖なしでは運転者が気を遣ってくれないので出かけられない。 以上は眼に見える症状なので他人に説明する必要がないが、その他に長時間の超低体温手術の後遺症は、全身に渡って山ほど有り、苦痛と不快感は一向に去らない。主な症状は、 ? 周期的に襲ってくる鬱症状や心悸亢進。毎日、毎週、毎月、季節の変わり目・・の波がある。 ? 言おうと思っていることが旨く言えず、相手との会話がちぐはぐになりがちなので、面と向かっては時候の挨拶くらいしか出来ない。電話応対も事実上不可能である。(PCでは、ゆっくり時間を掛けて推敲できるので一応まともに会話できている心算であるが、一通のメールの返事が数週間後になることもある。) ? 低体温手術中に起きた虚血状態に起因する下半身の皮膚障害(靴擦れ、下着擦れの慢性化)で長時間の歩行や着席に苦痛を伴う。したがって、旅行や会合への出席は事実上不可能である。 どれも、命には別状がないとのことで、すべて専門医の守備範囲外。当然と言えば当然であるが、今後暫くの間増える一方のこういう半病人が次の世代の足を引っ張ることの無いよう祈るのみ。 2013年3月22日(金)の日記 今年も同窓会出席を断念・・後遺症の伏兵、鬱病 先週の金曜日には、中学の同窓会の案内メールに欠席の返信を出したばかりだが、今日は、その2日前に予定されている大学の同窓会(1960年入学文?−6組)の案内メールにも最終的に欠席の返事を出した。中学の方はこれで4年連続、大学の方は、3年連続の欠席となる。 ここ数ヶ月、体力は確実に回復してきているのに気力がそれに伴わないのは如何ともしがたい。 体重を例に採ると、運動能力は別として、発症前54キロ→手術直後40キロ台前半?→3年後48キロ→現在50キロと回復(?)した。娘の言によれば、ICUで植物状態だったときの私は、まるでアウシュビッツ(のユダヤ人のよう)だったそうである。個室に移されて意識が回復した頃も、妻と交代で寝ずの看病を続けながら "お父さんにはお尻がない!"と言っていたことを思えば良くぞここまで回復したと言うべきだろう。しかし、たえず鬱の通奏低音に曝されながら生き続ける綱渡りがいつまで続けられるか甚だ心許ない。 そうこうするうちにも級友達が、一人、また一人と去って逝く。 何時だったか、大石ゼミの友人達が茅ヶ崎の我が家に見舞いに来てくれたとき、嘗て、脳梗塞の後遺症で鬱病を経験した一人が、「関口、お前、鬱病には、ならないのか、あれは苦しいぞ・・とにかく死にたくなる・・」と言っていたのはこのことかと骨身に染みて分かった気がします。もし彼からそのことを聞いていなかったら、果たしてこうして耐え続ける覚悟が出来たかどうか・・。持つべきものは友人だとつくづく思う今日この頃です。 3年前に、ウエブ自分史 『一期一会 Our Eternal Moment』 を開設し、少年時代から駒場時代までの思い出を書き綴って来ましたが、半年前に本郷へ移った段階で息切れしてしまいました。しかし、今回の寄稿を機に、やはり、本郷での思い出を書き残しておかねばという気持ちになりました。 4年間の思い出を駒場と本郷に切り離すことは出来ないことに気付いたからです。 |