関口益照
歯科医院は兄益弘が継いだので、次男の私には、学者として禅理の科学的解釈と言う課題に専念する自由が与えられた。 しかし、課題の重圧に耐えられず、大学3年の秋、父宛に長文の手紙を書いて学者への道を降りてしまった。
やむなく関口家ではただ1人のサラリーマンとして無目的な人生を過ごして来たが、図らずも略歴に記したような思いがけない道を歩むことになり、その回り道がここに来て当初の目的へ繋がって来た因縁に驚いている。


惠子(旧姓山本)の実家は、私の母フジヱの実家(増田家)から僅か数キロの同じ館林市内の渡良瀬川沿いにあり、微かに遠縁関係にあることが後で判明した。 因みに妻の母勝子は、旧制館林高女の出身で、私の母の後輩にあたる。

妻の曽祖父山本栄四郎はかつて市内下早川田町(旧渡良瀬村下早川田)の雲龍寺(私の母方の菩提寺)に結集し、官憲に抗して闘い、投獄されること7度に及んだと言う。 その経験から学問の必要性を痛感し、独学で中央大学法学部を卒業、群馬県会議長となって郷土の振興につとめた。
県会議長としては、栃木県会議長となった田中正造の方が先輩である。

私も小学生のころ、迎え盆と送り盆のとき佐野街道に架かる渡良瀬大橋を渡って川岸の草むらで鳴くガチャガチャ(クツワムシ)の大音響を聞きながらお墓参りに行ったことがある。その時の記憶では、戦前大地主だった増田家の広大な墓の隣にほとんど同じ大きさの墓があり、親戚かと思ってよく見ると墓標に田中正造と書かれていたのでびっくりしたことを覚えている。 母方の祖父、増田藤太郎が、田中正造に私淑していたというから、佐野の菩提寺からの分骨に際して何がしかの労を執ったのだろう。

先年、叔父増田健太郎の葬儀の際行ってみると当時の記憶に残っている鬱蒼たる樹木や田中正造の墓は跡形もなくなっていた。 代わりに山門近くの目立つところに記念堂とか言うものが建っていたが、お蔭ですっかり妻の信用をなくしてしまった。 私は狐につままれたような気分で未だに納得できない。


義父
山本達司は、邑楽郡中野村で機業を営んでいた小林家の三男で、私の祖父と同じ旧制足利工業の出身である。 戦時中は、中国戦線を転戦したが部下に厳しい反面、孤児の少年の面倒を見るなど住民には情誼に厚く、人望があったと言う。 当時の副官に塩川正十郎氏がおり、生涯を通じての盟友となった。 大尉で復員して山本家の養子となり、館林市長を5期20年つとめたが、列島改造の旋風渦巻く中、体を張って祖父栄四郎の志を継ぎ水と緑の町を守り続けた。 平成10年館林市名誉市民に推挙される。 平成12年没。 享年84歳。

市長としての義父は、市役所の職員に対して常にこう言っていた。 元秘書室長から妻が聞いた話である。
『能力のあるものは能力で働け! 能力の無いものは体力で働け! 体力も無いものは真心(まごころ)で働け!』
実父の益男とともに、金や物以上の志が在ることを教えてくれた仰ぎ見る存在である。

長男 関口貴裕は、大学院で遺伝子工学を専攻したが、IT業界に転進して私と同じSEとなった。
長女 関口智子は、英国の音大に留学し、妻と同じピアニストとして活動する傍ら、英語学校で教えている

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