その10・・・ 一期一会


 「恩師・旧友」、「上司・同志」、「知遇・奇縁」



恩師・・・ ありがとうございました。

岡部弘道先生(故人) 桐生西小4年〜6年の担任 レールを引いた人
倉沢  静先生(故人) 桐生西中1年のときの担任 この方無かりせば
清水次夫先生(健在) 桐生西中3年のときの担任 事実上の仲人
志賀正義先生(故人) 群馬県立桐生高校1年〜3年の担任 兄貴先生
 
大石泰彦先生(故人) 東大経済学部のゼミ指導教官 結婚式の仲人


旧友・・・ またあおう。

桐生西小1年〜6年、西中1〜3年の級友 『竹馬の友』
神山晃一: 5年生のとき赤城登山に同行。 桐生警察署の庭で遊ぶ。
田中富榮: 英語と植物採集、学芸会の思い出。 後年、Joan Baez を始めて聞かせてくれた。
三島精一: (故人)5年生のとき赤城登山に同行。 桑の実採りの途時、鉄橋上で汽車に遭遇。 あわや! 

桐生西中3年4組の級友 『親友』
阿部佳文: 小中高校、予備校を通じての親友。 HPの追憶十話 その2・・・1959年19歳の夏 で紹介。
小倉基義: 母親同士も婦人会で親しかった。 級友随一の成功者。 赤城グループ会長。
片山彰一: 祖父同士が書画骨董仲間。 今でも祖父(関口秋石)の掛け軸があると言う。
木村俊一: 級友随一の名士。 桐生最後の産地問屋(買継商)の社長。 桐生法人会会長。
竹内(金子)安江: 同級生共通の友人。 ブログ 1960.6.26(日) 中学の旧友と鼎談 で紹介。

経済学部のゼミ仲間 『心友』
越智伸男、小田 滋、片山直樹、小西靖男、田井野宏(故)、牧野良雄、森田青平

先日、片山君から届いたメールで、田井野君の命日が私の誕生日と同じだということを改めて思い出した。 これも、奇縁と言えば奇縁である。(2010.10.27)

文化T類−6組の級友 『畏友』
東  久雄: 元農水審議官
石川嘉延: 元静岡県知事
江田五月: 元参議院議長
小柳浩正(故): 元西武鉄道社長
堀籠幸雄: 元最高裁判事

等々・・・綺羅星の如し。


上司・・・ 『志』 を持たせてくれた人

山本卓眞 富士通信機入社時の課長 『英傑』 (終戦時、第2次日米戦は技術戦争なりと喝破)
山田文道 富士通総研設立時の社長 『英才』 (曹洞宗禅寺の嫡男、和魂洋才の楽観主義者)
林  圭吉 富士通時代最も気持ちの通じ合った課長。終生忘れえぬ恩人である。

林さんのお祖母さんはフランス人だと聞いたことがあるが、ご本人も白皙で知恵の塊のような人だった。 いずれ思いがけない縁の繋がりが判るときがあるだろう。

上のお二人とは、偶然とはいえ何か不思議な縁で繋がっているような気がする。
両氏が共に福岡県の出身であることに特別の意味があるわけではないとしても・・・。
いくつか例を挙げると・・・

山本氏が陸軍航空士官学校時代、館林飛行学校で訓練を受けた。 その頃、桐生の私達の家の上空を所謂竹とんぼが低空飛行することが良くあり、私達は、その都度、「たーかく上がった飛行機が、西から東へ飛んでいく・・・ぼーくもちょっと乗りたいな、乗ーせてくれれば嬉しいな」 と大声で歌ったものだった。
同氏が富士通社長時代、富士通館林工場が出来たが、そのときの館林市長が妻の父山本達司だった。
さらに、同氏の母堂の葬儀の際、祭壇に掲げられていた遺影に記されていたお名前を見て驚いた。 何と私の母の名と同じフジヱだった。
これ等の符合に何か意味があるとも思えないが、私としては、運命的なものを感じざるを得ない。

山田社長が曹洞宗禅寺の嫡男だったということは、部下になってから何年も経つまで知らなかった。 しかし、祖父の代から因果必然の科学的含意というテーマと格闘してきた一曹洞宗門徒としては、氏から薫陶を受けた思考のフレームワークと概念的アプローチが、現代物理学のアプローチに行き詰まっていた私にとって一条の光を齎してくれたことは確かであった。


同志・・・ My kindred heart

渡邉  正 東京情報大学 赴任時の学科長 『物理学者』 (学長候補に推薦、同時代の西荻窪を体験)

私が西荻に下宿して3年目の1960年に渡邉氏は都立西高校に入学し、西荻の有名な開かずの踏切を横断して自転車通学をしていたそうだ。 きっと何度か擦れ違っていた筈だ。 若しかしたらあの時の賢そうな高校生が・・・

東京情報大学に転職して間もなくだったと思うが、通勤の帰路、都賀の駅で、NTTデータ通信の草分け 杉山元伸氏とばったり出会い、杉山氏の令嬢が私が赴任することになった東京情報大学を卒業したばかりと聞き、吃驚したことがあり、そのことを渡邉氏に話したとき更に驚くような事実を聞かされた。 何と、彼女が渡邉氏のゼミの教え子で、私と入れ替わりに卒業したばかり、しかも学科の総代として答辞を読むことになり、渡邉氏が助言した間柄だと言うのである。

その後、渡邉氏が学部長時代、何かのシンポジウムの打ち上げの際、大学近くの寿司屋で若手の教員や大学院生たちを慰労したことがあるが、そのときも店に入った途端、杉山一家の団欒の場に鉢合わせすると言う考えられないようなことがあった。

私が、NTTのプロジェクトから離れて以来、杉山氏と会ったのは、富士通時代を含め、この30年間にこの3回しかない。 そのいずれにも渡邉氏が登場する。 偶然と言えば偶然には違いないが、我々3人が何か眼に見えない糸で繋がっているような気がしてならない。



山崎和子 東京情報大学 赴任時以来の共同研究者 『物理学者』 (サンタフェ研究所同行)

大学へ転職したとき最初の研究室が隣同士だったのは別に取り立てて言うほどのことではないが、始めて参加した学会、それも 『日本ファイナンス学会』 と言う物理学とは縁もゆかりもない席で、ばったり顔を逢わせたときは驚いた。 二人とも殆ど同時に叫んだ。 「何で先生がこんな所に居るんですか!」
当時、我々は、それぞれ別の動機から複雑系理論に関心を抱き、株式市場の振る舞いに適用できないかと考えていた。 一緒に小田稔学長のお供をしてサンタフェ研究所へでかけたのもその一環であった。
私の研究活動には、あまり役立ったとは言えないが、ほんの小さな現象が時空間を経て想像も付かない大現象を引き起こすと言う原理は、因果必然のアナロジーとして参考になった。

中尾  宏 東京情報大学 ビジネスシステム研究の同志 『ビジネスシステムコンサルタント』

私は、文系で通信機メーカーの技術部に配属されSEになった。 中尾氏は、理系でベビー用品メーカーの本社企画室に配属されコンサルタントになった。 情報大学での最後の数年間、研究室も隣同士、共にWEBアプリケーション研究室の基礎作りに取り組んだ。

西郷従節 富士通総研 システムコンサルティング事業の同志 (西郷従道の直系。 流通システムの第一人者)

富士通SE時代、西武グループのクレジットカード企画プロジェクトで協働。 鈴木正慶氏、林野宏氏は奇しくも共通の知人。

杉山元伸 NTTデータ通信の草分け。 板倉氏とともに全国信用金庫共同オンラインシステム開発プロジェクトの同志
       電電公社社内応募で松山局から参加。 古河総合ビル&大手町電電ビルで突貫作業。
       
板倉  稔 富士通 インターバンクシステム開発プロジェクトの同志 (スーパーSE。 型破りの人)
忽那恭一 富士通 銀行第3次オンラインシステム企画プロジェクトの同志 (忽那水軍の末裔。 乱世の軍師:孔明の如き人)
佐藤由樹 富士通 銀行アプリケーションパッケージ開発プロジェクトの同志 (会津の俊才。 文武両道の好漢)


知遇・・・ こんな人達と知り合えるとは

黒田  巌 元日銀金融研究所長(研究会、共著
鈴木正慶 元野村総研専務金融事業本部長(研究会、西郷君とは慶応幼稚舎の同級生。 富士通総研創設時に助言受ける)
田中直毅 経済評論家(研究会、富士通総研創設以来の顧問、黒田氏と共通の知人)
林野  宏 クレディセゾン社長(富士通のITユーザー、共著

Dimitris.N.Chorafas 希臘人IT学者、Chorafas賞創設者(友人、著書に序文寄稿)

ICL出向中の忽那氏と共にルツェルンの湖畔にあるコラファス氏のヴィラで歓談した際、私が序文を寄せた著書が出版されたことを聞き、記念すべき初版本を贈られた。


奇縁

上記の人々の何人かとは、奇縁としかいえないような、出会い方をしているが、本当の奇縁は、むしろ、これから明らかになるような気がする。 (2010.3.22)



2010.10.25

病床でうつらうつらしていた時、若しかしたらこれが本当の奇縁かも知れないという因縁の連鎖が浮かび上がってきた。 ・・・ もし、2浪して東大に入らなかったら、父の遺稿 「バイオリン奇譚」 "A Mysterious Episode of Violin" のWEB公開も無かったろうし、祖父の遺志 「因果必然」の科学的モデル化 の継承も実現しなかったろう・・・

それは、こういうことだ。

2浪して東大に入らなかったら、下目黒の石橋婦人のところへ下宿することはなかったろうし、石橋婦人が富士電機会長、和田恒輔氏の親戚でなかったら富士電機に就職することもなかったろう。

(富士電機の社長、金成増彦氏が、ゼミの恩師、大石泰彦教授が旧制水戸高校時代、寮で世話になった先輩だったというのも何かの縁といえるかも知れない。)

また、S40年不況で富士電機の経営が傾かなかったら子会社の富士通信機に変わることもなかったろうし、更に、そのとき、富士通がオンラインバンキングシステムの開発に社運をかけていなかったら、そして、プロジェクトマネージャーが 山本卓眞氏でなかったら、アプリケーション開発に注力することもなく、文系新入社員が技術部に配属されるという異例の人事はなかったろう。

(父益男の青年時代 「医学の革命」 の出版に助力を惜しまなかった田中次郎左衛門氏が、富士通がコンピュータに社運をかける決断をした当時の社長、岡田完二郎氏と、旧制中学(宇治山田?)時代の友人だったということを亡母から聞いたことがある。 これも奇縁といえば奇縁である。)

そして、もし、課長時代に、日本IBM社に対する企画力の劣勢を逆転させるため、自ら企画スタッフを志願するという異例の人事を上申しなかったら、後年、富士通総研の設立メンバーとなることはなかったろうし、開銀から招聘した 山田文道社長に出遭い、思考のフレームワークと概念的アプローチの薫陶を受ける機会は得られなかったろう。

さらに、もし、高橋亀吉記念賞のテーマが 「地方分権」 でなければ応募することもなく、したがって受賞することもなかった。 そして、情報大学の学部長が富士通出身の 石井康雄氏でなく、情報学科長が 渡邉 正氏でなかったら教授として採用されることもなかったろう。

しかし、もし、転職したその年(1995年)に windous95 が登場しなかったら、WEB技術を身につける必要は無かったし、その機会も無かったろう。

仮に、もし、これ等すべての条件が揃ったとしても、こうして (スタンフォードA型)急性大動脈解離 で死線を彷徨い、かつ、生還しなかったら、このような毀誉褒貶の定かでない無謀なテーマに着手する決心はつかなかったろう ・・・

・・・ こんなことが誰にでも起こるのだろうか?

これらが全て偶然だと言うのなら、人生はすべて偶然であり、運の良い人は飽く迄も運が良く、そうでない人は飽く迄も不運だと言うことになる。 すべからく私利私欲に徹すべしと言う利己主義者や、全ては努力次第だとか、気持ちの持ちようだとか言って憚らない傲慢な成功者達に反論する余地はないし、悲惨な人生に絶望して死を選ぶ人々に何を言ってもお為ごかし(=偽善)になってしまう。 釈迦やキリストは人類史上最大の偽善者だとでも言うのだろうか?



2011.1.28

もう一つの奇縁・・・私が東京情報大学へ転職した因果の連鎖

赴任して、4年めの平成10年学部再編成の方針が決定され、渡邉氏を補佐して構想を立案することになった。 目玉は新学科創設にあったが、その学科名称をどうするかが最大の課題だった。 私を長とする新学科準備委員会では、いったん「情報処理学科」案を上申し、文科省の内諾を得た。 しかし、正式申請を前に控えた学内最終決定の席で、私は、何を思ったか、突然、委員会に諮ることも無く独断で、学科名称を 「環境情報学科」 に変更したいと言い出したのである。 勿論、第2案として当初から選択肢に上っていたから、名称自体が唐突だったわけではない。 しかし、一旦、当局の予備審査を通り、最終確認するだけにまで煮詰まった案を変更すると言うのは、危険な賭けであり、しかもそれを独断で提案すると言うにいたっては、まさに常軌を逸していた。 しかし、この提案はさしたる抵抗も無く通り、私は初代の環境学科長となった。 これを全面的に支持してくれたのが、当時の学部長 安藤由典教授であり、後に学部長となった渡邉正教授、原慶太郎教授である。

その後、ずっと、なぜ、あの時、あのように無謀な挙に出たのか、不思議でしょうがなかったが、先日、ベッドで横になって休んでいるうちに、はっと気が付いた。 亡父が22歳のとき、宮本金八氏を訪ねていった時の宮本氏の不思議な行動とそっくりだと言うことにである。 ドイツ帰りのヴァイオリニスト貴志氏の演奏会に招待され、そのまま、大阪で貴志邸に一泊する予定だった宮本氏が、突然、どうしても帰宅しなければならないような気がして夜行特急に飛び乗り、帰宅して異常が無いのでほっとした瞬間、玄関のベルが鳴り、痩せこけた田舎青年が訪ねてきたという奇跡的出遭いである。

宮本氏にとって大阪での唐突な行動が、不思議であったように、私にとってあの会議での唐突な発言は、不思議としか言いようが無い。 これが、渡邉氏や原氏にとってどのような意味を持つかは知る由も無いが、私にとっては、子供の頃母の実家の菩提寺(下早川田の雲龍寺)で見た田中正造の墓や彼らと共に官憲と闘った妻の曽祖父(山本栄四郎)の遺志の導きだったとしか思えない。

渡邉氏との奇縁は、少年時代の西荻以来であるが、原氏とは、重慶大学を通じて不思議な縁がある。 私の研究室に重慶工商大学の呉詩賢講師が滞在したことは別に述べたが、彼は、原教授が共同研究を通じて交流している重慶大学の大学院生でもあった。 私が倒れなければ今頃は3人で三峡下りを楽しんでいたかも知れない。



私と東京情報大学を繋ぐ糸は一本や二本ではないかも知れないという気がしてきた。

例えば、山崎和子教授と複雑系理論を通じて協力することになり、サンタフェ研へ同行したこと。 これが無ければ因果の無限集合連鎖のアイデアは生まれなかったに違いない。

また、目黒の大鳥神社で行われた母フジヱの葬儀の際、わざわざ駆けつけて来られたのが、和楽器の音色研究の権威で九州芸工大学の学長を勤められた安藤由典教授と情報大学学歌の作曲者で学内きっての感性の持ち主、伊藤敏朗 教授のお二人だった。 お二人とも音に関して鋭敏な感覚をお持ちの方ばかりである。 ここにも、亡父の遺志を感ずるのは、私の思い過ごしだろうか。


私と東京情報大学を繋ぐもう一本の太い糸・・・空恐ろしいばかりの因縁があった!

東京情報大学は、学校法人東京農業大学が創立100周年を記念して創立したものであるが、その時の農大理事長は西郷従節君の叔父、設立に当って全面的に協力したのが、当時、経団連の情報産業部会長だった富士通の山本卓真社長だった。 さらに、農大の創立者榎本武揚は、足尾鉱毒事件当時の農商務大臣として、被害農民の陳情を受ける立場にあり、明治29年の大水害の際には、自ら渡良瀬川・利根川の被害地を視察し、国に 『鉱毒予防命令』 の制定を促したが、そのためには、その地位を辞せざるを得なかったと言う。

因みに、この時の利根川の氾濫では、堤防が306メートルに渡って決壊し、祖父の実家があった邑楽郡萱野村は全村水没、その期間は70日に及んだ。 これ以降、室町時代から続いた関口、間中、荻野の3家は、没落・衰退し、各地(熊谷、足利、太田、桐生・・・)に離散することとなった。 祖母は、義兄一族の苦境を助けるため我が家の全金融資産の提供を申し出たという。


そもそも、私が最初に就職した富士通は、妻の曽祖父(山本栄四郎)の仇敵、足尾鉱毒汚染の元凶(古河鉱業)の曾孫会社である。 しかも同期の盟友西郷従節君は、古河家の女婿、西郷従道の直系の家長である!





(未完)


関口益照サイトへ戻る























inserted by FC2 system