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その8・・少年時代の夢


「赤城山」、「渡良瀬川」 を原風景として共有する「流域広域連合」の実現



渡良瀬川の思い出


1、3〜5歳のころ

まだ空襲警報が鳴り始める前の夢のような時代だった。
何度か母に手を引かれて下早川田の母の実家へ行ったことがある。
汽車で両毛線の佐野まで行き、そこで東武線の電車に乗り換えて館林に向かう途中の渡良瀬駅で降りた。


東武佐野線渡良瀬川橋梁

上流(左手)約1キロメートルに佐野街道に架かる渡良瀬大橋が並行に走っている。

この間の記憶は後からつなぎ合せたもので、はっきり覚えていない。
覚えているのは次のようなことである。
渡良瀬駅から母の実家までの道のながかったこと。
向こうに見えている渡良瀬大橋の丸い橋桁がいくら歩いても近づいてこない。
あの景色といつも一緒に思い出す歌がある。

     ・・・お家がだんだん 遠くなるぅ 遠くなるぅ 
     ・・・いまきたこのみち 帰りゃんせぇ 帰りゃんせぇ 
 
渡良瀬川の水が澄んでいて、叔父たちが水浴びをしていたこと。
2番目の叔父が何かの替え歌をうたっていたこと。

     ・・・でっかい薬缶にお湯が沸く・・・

これが 『予科練の歌』 の替え歌だと知ったのは何年もたってからだった。
川には渡し舟が行き来していたこと。
帰りは駅までバスに乗った記憶がある。バス停は村の雑貨屋さんの前にあり、店の小母さんが鄙びた声で何とも優しく声をかけてくれた。

     ・・・フジヱさん、帰ってきたのけぇ・・・


2、6歳の時

東京大空襲の後、米軍は、全国の鉄道駅に沿って主要都市を次々に爆撃して来た。 両毛線もその例に漏れず、大宮⇒熊谷⇒高崎と下って来たので、夜間サイレンが鳴る度に 『岡公園 』 まで避難するとき足手まといになると考えたのか、祖父母と私の3人で、川内村の高津戸峡 の近くに疎開することになった。


高津戸峡

上流(手前)から高津戸橋を望む。 私たちが疎開していたのは、橋の向う側(下流)、数百メートルの所にあった農家の2階一間である。

この数ヶ月間(若しかしたら1年数か月?)の体験は、私の心に 渡良瀬川 の思い出を強く刻み込むことになった。
祖父と2人で夕暮れ時の山道を歩いたときに見た白い花( “こでまり” だったか )


自生のこでまり

後年、中高生時代、渡良瀬渓谷サイクリングの途中、夕暮れの山道でこの花を見る度に、夢を見ているような気持ちになったものだ。

そこで ダム を見たこと。 私が「あれは何」 と聞くと、祖父が 「発電所だよ」 と答えたのを 「ハツベンショ」 と聞き違え、いったい何のことだろうと不思議に思った。


高津戸ダム

その後、70歳になる今日まで、一度も見ていない。
今でもあるのだろうか。 この写真を撮った人に聞いてみたい。
祖父が峡谷の岩の上に有った友人の別荘で何やら話し合っている様子が、恰も祖父の友人が桐生の自宅に持ち込んで来る山水画の仙人たちのようだった。
疎開先の女の子たちと 川原 で遊んでいたとき知らないうちに増水してあわや死ぬところだった。 しかし、そのことを隠すため服が乾くまで家に帰らなかった。 つい最近まで上流で夕立が降った所為だろうと思っていたが、病床でうとうとしているときハッと気がついた。 ダムの放水を知らなかったのだ。

「ながめ演芸場」から渡良瀬川の下流を望む。

高津度峡はここで終わり、川原の開けた中流に替わる。 私たちが取り残されたのは左手上方に見える川原の先端の辺りである。

家の前の山(要害山)の中腹に水兵さん達がおおぜいで洞穴を掘っているのを見て、みんな “水兵が山に居るようじゃこの戦争は負けだ” と言っていた。
山水画の “仙人” が祖父のところへ長い槍を持ってきて、“米兵が攻めてきたらこれで戦って死ぬつもりだ” といっていた。 それを聞いた祖父が “私はこれだ” と言って青酸カリとか言う白い粉を見せた。 それを聞いていた私は “ふーん、戦争に負けたら死ぬんだ” と何やら分かったつもりでいた。
空襲警報で電気を消して山の洞穴に逃げたとき村中が煌々と明るいのでびっくりしたが、みんな平気な顔をしているので “どうして” と聞いたら “あれは、蛍だからしょうがない” といわれ驚いた。 何と数万匹とも知れない蛍の群れが家という家の防風林にとまって、まるでイルミネーションさながらに家の所在を敵機に知らせているように見えた。
同じく空襲警報で山の洞穴に逃げたとき、今度は昼間だったが、すぐそばで物凄い爆発音がしたので、みんな驚いて見晴らしの良い所に跳びだしてみると、遠く 太田 の方角に今まさに爆発した何かの爆煙が45度の直線を描いて上っているのが見えた。
みんな尤もらしい顔をして “恐らく火薬庫か何かに爆弾が当たったのだろう” などと言っていた。



・・・・・・ 山百合の花が咲いていた
幼い頃の田舎の家の
裏の小山の栗の木林
山百合の花が咲いていた
向こうの山のあの桑畑
桑のみ摘んだその帰り道
山百合の花が揺れていた
祖父と歩いたあの峠道
ダムを見下ろすその崖の下
山百合の花が咲いていた
幼い頃の田舎の村の
を追った小川のほとり




3、10〜12歳のころ

母フジヱ(旧姓増田)の実家は、館林市下早川田の佐野街道に架かる 渡良瀬大橋 の手前にあり、旧制館林高女時代の友人と川原で一緒にとった写真を何度か見たことがある。


館林付近の渡良瀬川右岸。

遠方に日光の山々が見える。 5歳の頃の記憶と決定的に違ってしまったのは、河川敷の桑畑、川原の白砂、そして船頭の棹さす河舟が見えないことである。
現在は、桐生を起点とする渡良瀬サイクリング道路が整備され、さらに変わってしまった。

菩提寺は 雲龍寺 といい、私も小学生のころ、迎え盆と送り盆のとき渡良瀬大橋を渡って川岸の草むらで鳴くガチャガチャ(クツワムシ)の大音響を聞きながらお墓参りに行ったことがある。 その時の記憶では、戦前、大地主だったという増田家の広大な(子供の目にはそう見えた)墓の隣にほとんど同じ大きさの墓があり、親戚かと思ってよく見ると墓標に 田中正造と書かれていたのでびっくりしたことを覚えている。 母方の祖父、増田藤太郎が、田中正造 に私淑していたというから、佐野の菩提寺からの分骨に際して何がしかの労を執ったのだろう。

先年、叔父 増田健太郎 の葬儀の際行ってみると、当時の記憶に残っている鬱蒼たる樹木や、田中正造 の墓は跡形もなくなっていた。 代わりに山門近くの目立つところに記念堂とか言うものが建っていたが、お蔭ですっかり妻の信用をなくしてしまった。 私は狐につままれたような気分で未だに納得できない。
因みに妻恵子(旧姓山本)の実家は、渡良瀬川の土手沿いに10km程下った 同大島町にあり、先年、土手へのアプローチが綺麗にきれいに舗装されているので、「例によって公共事業か!」 と呟きながら上ってみたら、遥か上流まで続く自転車道路が出来ていた。


渡良瀬サイクリングロードの大島アプローチ。

前方が上流、足利・桐生方面。 妻の実家は、後方数百メートルの所にある。


桐生と岩宿を結ぶ両毛線の渡良瀬川に架かる鉄橋

多分、十歳くらいの頃だと思うが、親友の神山晃一君や三島精一君(故人)とよく、岩宿の方まで “どどめ” (桑の実の方言)を採りに行った。 家から歩いて30分くらいの所にある 両毛線の鉄橋 を渡って、一日がかりで出かけたものだ。橋の途中で汽車(勿論、蒸気機関車!)に出くわすのを避けるため、遥か地平線まで一直線に伸びる線路のかなたに煙が見えないか目を凝らし、さらに、線路に耳を当てて、まだ 岩宿駅 を出発していないかを確かめるのが文字通り死活的に重要だった。
しかし、慣れてくると次第に大胆になり、ときには向こうに煙が見えるのを承知で、機関車に向かって全速力で走り渡ったこともある。 一度などは、橋の途中で時間切れとなり、必死になって避難所に逃げ込んだことがある。 すれ違いざま、機関手に 「馬鹿やろー」 と大声で怒鳴られたが、あのときばかりは少々こたえた。
また、ある時は、高さ 4,5メートルはあるかと思われる桑の大木から三島君が転落してヒヤッとしたが、さいわい下の土が軟らかかったので事なきを得た。 いずれにしても当時の子供たちは(大人も!)平気でそのくらい危険なことをやっていた。
しかし、それだけの危険を冒す価値は十分あった。 帰り道はずっと、見渡す限り赤城山(あかぎやま)の中腹まで広がる桑畑を望みながら意気揚々と引き上げてきたものだ。
私は水泳をやらなかったので、小学生時代は専ら、市の周辺の山で栗拾い(と言うと品がよさそうに聞こえるが実際は栗の木荒らし)や沢蟹飼育(これも実際は沢荒らし)で夢中だった。
ときには、野生の山百合の鉢植えなどにも凝ったが、それも、すぐ枯らしてしまった。
一番好きだったのは、疎開先でよく見掛けた淡紅色の山つつじ(正式には何と言うのだろう)の花だ


山躑躅の花。

この木や桑の木の根っ子は、硬くて火持ちがよいので、風呂を涌かすには恰好の燃料になった。疎開先で見つけたときは採っておき、時々、自転車で西堤の「切通し」を回ってやって来る父や母に持ち帰って貰うのが楽しみだった。


西堤の「切通し」

渡良瀬川左岸、旧山田郡川内村と桐生市西堤町赤岩を結ぶ「切通し」を赤岩橋から望む。 中学・高校時代も渡良瀬渓谷へ出かける途中よく自転車で往復した。 当時は、砂利道だった上、岩肌が露出したままで、見上げると今にも大岩が落ちてきそうで怖いようだった。



4、中・高生のころ

中3で東大受験がほぼ既定事実になってから、すっかり勉強嫌いになり、その憂さ晴らしに毎週のように自転車で遠出した。
殆どの場合は、足尾線 (現:渡良瀬渓谷鉄道)に沿って水沼あたりで日が傾き、慌てて引き返すのを常としたが、時折、花輪から沢入まで足を伸ばすこともあった。

足尾線重連 わたらせ渓谷鉄道

一度、10月頃、水沼を過ぎてからか手前だったか覚えていないが七曲を回った途端、あっと驚くような景観を目にして思わず自転車を扱ぐ足を止め暫く呆然としたことがある。
眼下を流れる渡良瀬川の対岸に聳える大きな山が全山燃えるように紅葉して、まさに、この世のものとは思えぬ光景だった。


古路瀬渓谷

この画像は、本宿から水沼への途中、七曲を回った辺りの光景である。わたらせ渓谷鉄道の宣伝(桐生市観光課)なので、私の見た対岸の山全体が紅葉している様子は写っていない。 私が自転車を止めて呆然としていたのは、この画像で言うと鉄道線路(手前が足尾方面)の上方に線路と並行して走っている道路(当時は凸凹の砂利道だった)上である。
あまりに感動したので、その日は急いで飛んで帰り、原稿用紙に800字位のエッセイを書いた。我ながらそれなりに旨くかけたと自賛していたのだが、桐生を引払うときのドサクサでどこかへ消えてしまった。出来ることならもう一度あの景色を見たい。
今でもはっきり覚えているのは、次の一節である。

“このふるさとの川の名を日本中に知らせたい・・・いや、知らせてみせる。”
学生時代に、場所を確かめようと思って、一度、観光バスに乗ってみたことがあるが、そのときのバスガイドの説明では「古路瀬」と書いて 「ころせ」 と読みます ・・・ と言っていたはずだ。
ところが、インターネットで桐生市の観光案内を検索してみると、「こじせ」 と読ませている。 こじつけも好いところだ。 地元の古老は、「ころせ」 だと言っているそうだし、江戸時代、近くに処刑場があったこと、幽霊が出ると言うことで名所になっており、トンネルの入り口近辺に供養塔があることなどからも、「ころせ」 以外は考えられない。 偽善的言葉狩りによる歴史抹殺も極まれり! と言うべきか。 ここにも、もう一つの 『閉ざされた言語空間』 があった!

しかし、ともかく、インターネットのお蔭で、おおよその位置はわかった。 水沼の少し手前らしい。 それなら私の記憶と一致する。 桐生市立西中時代の級友、竹内(金子)安江さんに、生きているうちに、一度、旧友達と一緒に再訪したいとメールしたら、その時は、皆を集めると言ってくれた。




赤城山の思い出


1、小学校5年生のとき

夏休みに教職員と生徒の有志(私のクラスは、スナップ写真で見ると 10位人だったろうか)で敢行した。


赤城山大沼を望む峠にて(桐生市立西小学校5年5組有志)

後方は、大間々・桐生方面。 岡部弘道先生を囲んで丁度1ダースだったようだ。 前列右端が小1以来の親友、(故)三島精一君、その後ろで呆けた顔をしているのが私・・・みんな懐かしい顔ばかりだ。 名前を挙げだしたら限がないので別の機会に譲ることにする。 風が強くて寒かったのと利平茶屋からの長時間の登山でみんな疲れきっていたはずだが・・・
登りは水沼から利平茶屋までバス。そこから先はまだケーブルカーが無かったので徒歩。
青木旅館に一泊(各自、米1合持参)、電気無くランプのみ。年長者が怪談で脅かす。
下りは黒檜山の頂上から水沼まで全部徒歩。(まさにトホホとはこのことか)



2、中・高生のころ

受験勉強の憂さ晴らしに毎週のように自転車で遠出していたことはすでに触れたが、高校時代に何度か太田・足利から館林、あるいは、前橋から高崎まで足を伸ばしたことがある。
その往路はどちらかと言えば難行苦行で殆ど面白みが無かったが、復路は、疲労困憊状態ながら、常に赤城山の全貌を目にしていたので、その疲れも苦にならなかった。


赤城山遠景

・・・そのはながしあかぎやま(上毛カルタ
桐生市郊外から赤城山を望む。 手前の土手は桐生川の堤防。

前方に広がる赤城の雄姿は今でも変わらないが、唯一つ失われてしまったものがある。街道の両側から遥か中腹まで広がる桑畑の連なりである。



3、浪人時代

浪人2年目に西中時代の同級生、阿部佳文君の誘いで赤城山のバンガロー 『森の家』の大熊家で過ごした一夏のことは、追憶十話・・・その2 を参照されたい。
浪人時代の東京往復は、とにかく安さを優先したので、ほとんど八重洲口始発の桐生行き急行バスだった。乗るのはいつも午後だったので、熊谷を過ぎて利根川を渡る頃は夕陽がきれいだった。バスの中には、当時大ヒットしていた三橋美智也の 『赤い夕陽の故郷 が流れていた。
バスが太田にさしかかると道の両側は一面の桑畑で埋め尽くされ、『あぁ・・・故郷に帰ってきたんだなぁ』 と胸が熱くなったのを思い出す。



4、学生時代

大学3年か4年の頃、加古川出身のゼミ友達、小西靖生君がぜひ両毛線の旅をしてみたいというので、館林の母の実家や、桐生の私の家へ案内したことがある。


足を組んでいるのが小西靖生(のぶお)君

誰が撮ってくれたのか覚えていない。 ゼミの面々は、経済学(注)のほか、それぞれ自分の世界を持っており、例えば田井野はアイスホッケー、片山は謡曲、小田はマージャン、牧野は柔道、越智はヴァイオリン、小西はゴルフといった調子だった。 私はといえば、図書館で経済学と法学以外の本(バートランドラッセルや科学哲学等)を読んだり、文学部の印哲や音楽論の講義に紛れ込んでいたりした。 森田が何をしていたかは知らないが、その後の進路や飲み会での発言を聞くがぎり、少なくとも我々よりは真面目に勉強していたらしい。 とにかく当時、経済学部を第一志望に選ぶのは、いわゆるまともな学生ではなかったらしい。 殆どの学生は法学部志望で、経済学部を志望するのは、おちこぼれか確信犯(マルクス主義者かごく少数の近経派)しかいなかったようだ。 私ももし小西に誘われなかったら、文学部か理2に転科していたろう。 ただし、1960年度の新入生には例年になく経済学部の志望者が多かったと駒場の関係者が言っていたという話を誰かから聞いた記憶がある。 きっと高度成長の兆しを敏感に察知した連中がいたのだろう。 そういえば、日銀の経済学部卒採用枠も例年になく多かったとか(それまではとびきりの秀才1〜2名のみ。 足りなければ大蔵省からの滑り止めで埋めればよかった! 我々が今でも付き合っていられるのは、確信犯同士の同志的結束の然らしむる所以かもしれない。)

(注: 大石先生に言わせれば、学部生の勉強など学問の名に値しないとか。 したがって我々は誰もいわゆる卒論というものを書いた経験がない!)
小山回りで佐野まで行き、そこから館林行きのバスに乗り、幼年時代に母と辿ったのとは逆のコースで渡良瀬大橋をわたって下早川田の叔父(増田健太郎)を訪ねた。 突然の訪問だったが健太郎叔父は大喜びで歓待してくれ、和気藹々と痛飲した。 そればかりか、深夜にも関わらず飲み友達の家に連れて行かれ文字通り泥酔状態で、叔父の家にどう帰ったのかも良く覚えていない。 小西君も 「これが上州流歓迎か」 と勝手に面白がっていた。
翌日は寝ぼけ眼で下早川田に別れを告げ、桐生の私の家に向かった。
家では、これまた、予告なしの訪問だったにもかかわらず、父も母も大喜びでもてなしてくれた。
ただし、叔父とは異なり下戸の父なので、アルコール攻めには遭わずに済み、正直2人ともホッとした。

いずれも予告なしの訪問が非礼でなかった良き日の思い出である。

在学中、彼と、よくそのときのことを話題にしてコーヒーを飲んだものだ。



5、50代〜

東洋経済新報社の “高橋亀吉記念賞 ” のテーマが 『地方分権』 だというので会社を辞める決心をして、懸賞論文に応募した。
受賞して電車の吊り広告にデカデカと載ったが、案の定、社内で大っぴらに褒めてくれるものは一人もいなかった。
高橋亀吉記念賞受賞論文: 『競争的広域行政機構による郷土の再興



6、今後

旧友の何人かは既に鬼籍に入っている。 私自身も人生の最終章を閉じる日が近づいて来た。
これからの余生は、誰が何と言おうと 『郷愁の世界に生きる』 つもりである。
情報化時代の新しい故郷とは何か、私はこう考えている。
都市問題研究会寄稿論文: 情報技術の進歩と都市概念の変容




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