その7・・・様々な因縁の地


 「外房鴨川」、丸の内仲通り「信州上田」「函館・洞爺」、「中国重慶」、「英国ロンドン」
 「京都・清里」、「信州野辺山」


安房(外房)鴨川

中学2年の時、父、兄、妹と私の4人で数日間、鴨川に滞在したことがある。
そのとき、ちょうど町長選挙の真っ最中で選挙カーの拡声器が騒がしかったのを覚えている。

4人で海岸を散歩の途中、河口の浅瀬を渡ろうとしたら、膝の辺りまで埋まり、おまけに水(砂と言うべきか)の流れが驚くほど速いので、危うく足をとられるところだった。小学5年だった妹を兄と私で吊り上げるようにして何とか渡りきったが、あのまま流されていたら・・・と思うと今でもぞっとする。

あの家族旅行ではいろいろヘマをやって、その後、長い間、何かにつけて家族の笑い話の種にされた。

まず、最初は、両国始発の外房線に乗るため錦糸町で国電に乗る際、私だけが一電車先に乗ってしまい、そのまま両国で外房線に乗り換えて安房鴨川まで一人旅を敢行してしまったことである。始めのうちは、どうせ行き先は決まっているのだからと強気に構えていたが、鴨川駅に着いて、いざ改札へ向かおうとしてはっと気がついた。切符を持っていなかったのである。仕方なく何本かの列車が到着する度に、父たちの姿を探したが見つからない。そのうちに心細くなって駅員に事情を話し、旅館の名前を告げると、「それならさっき連絡がありました。 すぐ迎えに来て貰いますから・・・」 というわけで、程なく 「竹乃家」 の幟を持った若い衆が迎えに来てくれた。


その後、50年以上の間、鴨川を訪れる機会はなかった。
鴨川シーワールド の話題や 亀田病院 の評判で、その発展振りは耳にしていたが、嘗ての鄙びた海水浴場のイメージからは掛け離れていて、実感がわかなかったというのが正直なところだ。
その鴨川に、教員生活の最後の2年間、続けて新入生を合宿(フレッシュマンキャンプと言う例年の行事)に引率することになるとは、思いもよらない人生の巡り合わせと言うしかない。

帰校の日の朝、1時間ほど暇が出来たので、宿舎の 鴨川館 から駅まで歩いてみた。 海岸にはコンクリートで固めたプロムナードが続き、昔の面影はすっかり無くなっていたが、当時、親子4人で歩いて渡った河口駅舎だけは50年前と殆ど変わっていなかった。

しかし、そのとき泊まった 旅館 『竹乃家』 はどこにも見当たらなかった。 渚に面した大きな三階建ての木造和風旅館だったが・・・
近くのベンチで数人の元漁師と思しき老人が所在なさそうに海を見ながら話し合っていたので、「その昔、竹乃家に泊まったことがある・・・」と言ったら、懐かしそうに 「・・・竹乃家なら、ほら、そこにあるよ・・・」と、すぐ後ろに建っているリゾートマンション風の目立たない十階建て位のホテルを教えてくれた。
やはり、どこかの大学の新入生合宿に使われていたらしく、若い男女が出発の出で立ちで大勢でてきた。


と言うわけで、安房鴨川は、少年時代につながる思い出の町である。




丸の内中通り

富士通に入って2年目頃、丸の内仲通り 古河総合ビルjヂングと称する何ら趣の無い古河系各社の本社の寄り合い世帯ビルが出来、富士通本社(事務所)もお向かいの千代田ビルから引っ越したのを期に、私達も武蔵中原の工場から転勤することになった。 通りに面した一階にショールームを作って最新鋭機(FACOM230/30)を設置し展示したのは良いが、唯おいてあるだけでは迫力が無いので、我々オンラインバンキングシステム開発チームをそこに移して格好いい所を見せようということだったらしい。

ところが、我々のチームは旧制高校の学生よろしく、なりふり構わず菜っ葉服姿でエンジニアを気取り、おまけに道行く颯爽たるビジネスマンやOLの好奇の目を尻目にバナナを剥いてパクついたり、林檎をまる齧りしながらキーボードをたたくといった調子だったので、役員の中には怪しからんと言う人もいたようだが、なにせ我々は社長特命の開発チームに文句をつける気かとばかり、一向に改めず意気軒昂たるものだった。 幸い社運を賭したプロジェクトが成功したから良いようなものの、失敗していたら唯ではすまなかったろう。

なにしろ、川崎のど田舎から丸の内のど真ん中へいきなり出てきたのだから見るものすべて珍しく飽きることが無かった。 なかでも毎日のように昼休み(とは限らなかったが)に有楽町から銀座方面へ繰り出して旨い店を探して食べ歩いた日々が懐かしい。

相棒の大島誓一君とよく行ったのは国際ビルの地下にあった 『文明堂カフェテリア』 で、大きなカップで飲み放題のコーヒーを何杯もお替りしたものだ。 大島君が8杯お替りしてウエイトレスに自慢したところ、すでに同じ記録の物好きがいて、「タイ記録です」と言われがっかりしたことがある。

国際ビルと言えば一階の通りに面した角に 『西武ピサ(PISA)』 という洒落た店があって、高級そうな輸入雑貨を陳列していたが、我々のお目当てはその店の美人ぞろいの店員たちだった。 とくに用も無いのに出かけて行っては奥の隅のほうにあった喫茶コーナーでポールモーリアの 『恋は水色』 などの BGM を聞きながら時間をつぶしたものだ。 私は、K子という名の店員に惹かれていて、一時は毎日のように通いつめたこともあったが、例によって、声をかける勇気もなかった。 一度だけ、私の給料でも手の届くしゃれた飾り用のランプを買ったことがあり、そのとき交わしたやりとりが彼女との唯一の会話と言えば会話である。 ただそれだけのことで終わってしまったが、私にとっては、丸の内と言う言葉とともに思い出す懐かしい名前である。
この人については殆ど何も知らないが、何かの折に、と言うか風の便りに、彼女の両親のどちらかが、熊谷在の利根川べりの村の出だと言うことを聞いた記憶がある。 もしそれが記憶違いでなければ、私の祖母の実家の近くだということになり、もはや確めるすべはないが、或いは遠縁だったかも知れないと思うと、懐かしさが弥増す今日この頃である。

食べ歩きの思い出としては、ほかにも面白い話が沢山ある。
あるとき大島君と、たまには甘いものを食いにいこうという話になり、私がさてどこにしようかと言うと、彼が、「あの女の子達のあとをついていって見よう。たぶんアンミツ屋に行くよ。」 と言うので、物は試しと付いていったところ、本当にその通りだったので2人とも思わず吹き出しそうになったことがある。

また、あるときは、思いっきり辛いものを食べに行こうということになり、銀座の東芝ビル(今は無いかも知れないが)の隣にあったインドカレー屋に入り、ターバンを巻いたインド人の給仕で煎餅のようなパンを頬張った途端、あまりの辛さに仰天したこともある。

ついでに言えば、ちょうどそのとき隣の東芝ビルでは、タイムセラーズが 『今日も夢見る』 のキャンペーンでライブ演奏をしていたが、好い歌だなあと思ったので歌詞付きの楽譜(と言っても1枚のチラシのようなものだったが)を持ち帰ったことを覚えている。 もう40年以上も前のことだ。




信州上田

富士通新人時代、丸の内の富士通ショールームで、日夜、銀行オンラインシステムの開発に取り組んでいた。
入社3年目頃の五月の連休中、たまたま作業が一段落したので、そのまま上野へ直行し、信越線に飛乗って長野方面を目ざしたことがある。

途中、何となく上田に降りてみたくなり、夕方の市内を歩いているうちに坂道の途中に小学校があった。なぜ小学校だと思ったかというと、校舎の前にお馴染みの二宮金次郎の銅像が立っていたからだ。
きっと、あれは上田西小学校だったに違いない。そう思って地図で位置を確かめてみるとどうも当時の記憶と合わない。駅からまっすぐ坂道を登っていく途中の左側にあり、道の右側は水のかれた沢のようだったと記憶している。校舎は南向きで町を見下ろすように建っていたと思う。そうなると北小学校だった可能性が高い。しかし、嘗ての木造校舎は鉄筋コンクリートの新校舎に建て替えられており、二宮金次郎の銅像も無く、当時の面影はまったく無い。50年の間にすべてが変わってしまった。

ところで、上田市の地図で小学校の位置を確かめようとして市の全域を表示した時、あっと驚いた。何と、あの美ヶ原は上田市の一部だったのだ!

それだけではない。後年、生物学をやりたいと言って信州大学へ入った息子が、3年次から修士課程を終えるまでここで過ごすことになろうとは・・・・・
15年ほど前、息子の在学中に妻の運転する車で上田の信州大学繊維学部を訪ねたことがあるが、旧制上田蚕糸専門学校時代の面影を残した木造の校舎などが残っていて、一瞬、子供のころ憧れていた旧制桐生工専(現群馬大学工学部)の構内を歩いているような錯覚に捉われた。

上田との不思議な縁は他にも幾つかあるが、それは別の機会に譲ることにする。


(未完)




函館・洞爺

函館で学会に出席したついでに、妻が 洞爺湖ホテル に行ってみたいというので、一日、函館本線で小旅行することになった。どうせならついでにと、昔、バブルの頃、母が買っておいてくれた“別荘地”を見に行ってきた。
近くに人の住んでいる家が1軒あったので、聞いてみると、「昔、そんなこともあったなあ・・・」 と、何とも現実離れした探査行となった。
結局、凡その位置は確認できたが、区画も標識もすべて草木に被われて、まったくの山林原野に戻っていた。
今でも、妻と2人でときどき思い出話に花が咲く。




中国重慶

インターネットで私のホームページに載っている研究内容を見つけた 重慶工商大学の若い講師(呉詩賢氏) が、突然メールを寄越し、受け入れの可否を打診してきた。
何でも、日本政府のODA資金を基に、重慶政府が設置した日本への若手研究者派遣計画の最終年度の枠に合格したのだと言う。
すでに、一旦、定年退職し、比較的楽な特認教授の身分になっていたので、せめてこの位の手間を引き受けなくては申し訳ないと受け入れることにした。
見ず知らず、しかも誰の紹介も無い外国人を受け入れる決心をしたのは、彼の書いてくる日本語の文章の折り目正しさに感銘を受けたからだ。
それにしても、重慶政府の好い加減さと日本の出入国管理庁のお役所仕事振りは好い勝負だった。
その彼も、私が発病する2月前の2008年9月に帰国した。
現在、教授を目指して意欲的な研究に取り組んでいるとか。

元気になったら一緒に長江下りをすることになっているが、その際、李白の詩を中国語で吟じ、“大地の子” の名場面を偲びたいと念願している。

早(つと)に白帝城を発す  李白

朝 (あした) に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿聲 啼 いて住まざるに
軽舟 已に過ぐ 萬重 (ばんちょう) の山

早発白帝城 (漢語原文)
朝辞白帝彩雲間 千里江陵一日還
両岸猿声啼不住 軽舟已過万重山






英国ロンドン


1993年ごろ英国に駐在していた盟友、忽那氏からの依頼で子会社だったICLが主催する “ European Banking Conference ” で講演することになった。
コンファレンス自体の中身は仕事の話なので省略するが、所はハンガリーのベダペスト、基調講演を前西独連銀総裁のシュレジンジャー氏 がやったり、司会をヨーロッパテレビの有名な美人キャスターがやるなど、それなりに “格調の高い” セレモニーだった。

しかし、驚いたのはそのことではない。忽那氏の上司である英国法人の鈴木社長が、何と、私が富士通の新人研修で電話交換機工場へ配属された時、一緒になった鈴木正敏君だったことだ。
彼は外語大出の英語の達人、私は経済学部を出ながら技術部へ配属されるという言わば傍流を歩いてきたので、あの頃、こうして30年後に遠いロンドンの地で再開することが有ろうとは夢想だにしなかった。


このロンドン行には、もう一つの副産物があった。
ロンドンでの私の宿舎はウインザー城ーに近いテムズ河畔にあったが、庭先を流れるテムズ川を遊覧船が行き来していた。
ある朝、早く起きて誰もいない川の流れを見ていたら宿泊客らしい屈強な男が歩いてきたので、“Good morning!” と言ったら向こうも “Good morning!” と返してきた。

それから、暫くすると数人の少女たちがやって来たので、「何をしに来たの?」と聞くと 「サッカーチームがどうの・・・」 と言って要領を得ない。
それから、どんどん人が増え始め、ロンドン駐在の後輩社員が迎えに来る頃は、みんなカメラやサイン帳を持って大騒ぎだった。
私を迎えに来た駐在社員も仕事そっちのけでカメラを構える始末。

聞くところによると英国では、大変人気のあるスポーツだそうで、おまけに私が挨拶を交わした男は、とんでもないスター選手だったらしい。
後でわかったことだが、チームの名は、“Manchester United” 。
いまでこそ若い人達で知らぬ者はいないだろうが、当時の私にとっては、まさに 『猫に小判』だった。


或る日曜日、忽那氏の車に同乗し、ドーバー海峡を見たいという私の思いつきに応じて、寒空の中をドライブしたことがある。 着いたのは何という名前の海岸だったか記憶がないが、白浜ならぬごつごつした石と言うより岩だらけの入り江で、遠くの方に例の有名なCLIFの白い壁が見えた。 薄曇で肌寒く人影もまばらだったが、一台のバンがラザニアだかホットドッグだか知らないが得体の知れない、しかし温かそうなサンドウィッチを売っていたので、辛うじて暖を取ることが出来た。
じつはこの時、一面のごつごつした海岸で一つだけ全く異なる飴色をした楕円形の石を見つけ、周囲に同じような石があるかもしれないと、寒さをこらえながら探したが遂にそれ一つしか見つからなかった。
そもそも、どこかから流れ着いたものか、誰かが落としていったものかも判らない。 専門家が見れば如何という事のない代物かも知れないが、私としては興味津々の趣がある。


Strange stone found on a seashore near Dover
(sussex hampshire district?) size: 8x7cm

忽那氏には、後年、
が “Royal Academy of Music” へ留学する際、“大変な” お世話になるが、その経緯は別の機会に述べたい。





京都(鴨川・東山・嵐山


新婚旅行の思い出
(未完)



山梨県清里


妻との避暑滞在の思い出
(未完)

学生との合宿の思い出
(未完)



信州野辺山
(未完)

電波天文台が繋ぐ小田稔先生と富士通の縁(情報大学へ転職するまで知らなかった。)

東京情報大学時代の清里合宿時に見学

盟友西郷従節君の別荘(未だに訪問していない)

盟友砂田登志夫君の思い出の地





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