その2・・・1959年19歳の夏


イギリス民謡:春の日の」、「赤城山バンガロー森の家の人々」、「東京の大学教授一家」 を繋ぐ思い出



昭和34年(1959年)、国中が地元高校の東大合格者数に一喜一憂していた時代、町中に注目されながら東大受験に2度失敗し、劣等感と屈辱に苛まれ、鬱々とした日々を徒に過ごしていた私にとって、小学校以来の友人である阿部(佳文)君との会話は、知的でありながら気宇壮大で実に楽しいものだった。
家も同じ町内で徒歩1分ばかりのところにあり、おまけにお互いの父親がともに同じ歯科の開業医だったこともあって、何を話しても楽しかった。

今でも彼に借りたまま返し損ねている英文の分厚い布表紙の本がある(Louisa May Alcott の Little Women)。
彼は、私と正反対のスポーツマンであり、国体の大回転では群馬県の代表として常連だったが、スキーに凝りすぎて私と同じ2浪受験生の苦境(?)に立っていた。
そんな彼が、私を赤城山への山篭りに誘ってくれたのは、私の浮かぬ顔を案じてだったのかどうか知らないが、私にとっては小学校5年生のとき水沼口から徒歩で往復して以来の心躍る提案だった。

そこで出会った人たち(東大教授の一家や教育大教授の一家など)は、田舎者の私には別世界の人々のように眩しい存在だった。


ある日、お世話になっていた大熊さんの知人(滞在中の親戚だったかも知れない)が、小沼の方へ行ってくるといって出かけたが夜になっても戻らず、山男達が(勿論阿部君も)総出で救出に当ったことがあった。 私も行こうかと思ったが、君はここでじっとしていろと言われ、発見の報が来るまで待っていたときの居ても立ってもいられなかった気持ちは忘れられない。
後で聞くと、遭難しかけた方も山で道に迷った時の鉄則を心得た方だったので、捜索隊の方でも居場所の見当が付いたとのことだった。
小沼から戻る途中で道を間違え、「おとぎの森」に踏み込んだらしい。 歩いているうちに滝があったので、そのまま動かず捜索隊が来るのを待っていたという。 道に不案内の人がここに迷い込んだらまず命は無いそうだ。
改めて、山男達の腹の座り具合に敬服した。

また、ある朝、皆が騒いでいるので何事かと思って聞いたら、近くの林で心中死体が発見されたのでこれから行ってくるが、君も来るかと言われ、まさかと思いながら付いて行った。
きちんとしたスーツ姿で両足を揃え、仰向けに眠ったようにして死んでいた若い女性のすぐそばの木の枝にはロープで首を吊った同年代の青年が死んでいた。
まだ、早朝だったので警察官らしい人物の姿はなかった・・・・
女性の死体に中年の婦人が寄り添って 「よく一緒に死んでくれたね・・・ありがとう・・・」 と言って泣き崩れていたのを見て、自殺した男性の母親なんだろうと想像した。 何とも痛ましい光景だった。

こんな悲しい体験の一方で、明るい楽しい体験もたくさんあった。 と言うより、実際には、毎日が心躍る夢のような日々だったと言ってもよい。

大熊さんが猪谷千春の親戚だと言うことは、阿部君から聞いていたが、どんな関係かは知らなかったし、また、当時の私にはそんなことに関心を持つ余裕もなかった。 ただ、滞在中、ご主人がどこかへ出かけて留守になったので、何処へ行ったのか聞くとスイスへスキーをしに行ったと聞いて、自分が想像も付かない人たちの世界を垣間見た思いだった。
スポーツオンチの私とアルペンスキーの草分け猪谷家とを繋ぐ接点があるとすれば、それは竹馬の友に阿部佳文君がいたことに尽きる。 改めて阿部君が自分とは違う人種に属することを痛感した。

阿部君のスーパーマン振りを痛感させられた事件は他にも多々あるが、その一つは、生まれて始めての水上スキーで一度も転倒せず見事に桟橋まで帰ってきたことである。
彼曰く、『大回転や滑降での経験から、相当の水圧を押しのける必要があることは前からわかっていたが、それにしても、凄い抵抗で流石にかかとが痛くなった・・・・・』

大熊氏は、デビュー当時の三船敏郎のような快男児だったし、また大熊夫人は、2児の母親として、まったく飾り気の無い中に、私達年下の青年が憧れを抱くような毅然とした上品さを漂わせた物静かな方だった。
ご夫妻と、どのような話をしたのか、今では殆どおぼえていないが、多分、実際にも殆ど挨拶以上の会話はしていないような気がする。

大熊家の男の子達(2人とも小学生)とは、よく縁台将棋ならぬストーブ将棋をやったが、まったく歯が立たなかった。 2人が、 “東大受験生とはこんなものか” と思ったかどうかは知らないが、2浪受験生としては形無しだった。

しかし、一度だけ面目を施したことがある。
東大教授の一家、と言ってもご主人はたまに日帰りでとんぼ帰りするだけで、普段は夫人と小6の女の子の2人だけだったが、3人兄妹の上の2人、高3の長男と高1の長女が幾日か泊まっていったことがある。
ある晩、例によってストーブ将棋に頭をひねっていたら、麻布高校の3年生だという長男が、学校の授業でどうしても判らない数学の問題が出されたので相談に乗って欲しいと言う。
一瞬たじろぐ気持ちを抑え、努めて平静を装ったものの、見ると確かに難しそうな無理方程式であった。
1年前の私だったらきっとお手上げだったかも知れない。 しかし、駿台の受験技術の向かう所、将に敵なしとはこのことか、見ること数秒にして問いのからくりが浮かび上がってきた。
そこで、最初から判っていたかのごとく、いとも易しそうにすらすらと解いてみせると、2人とも目を丸くして感心している様子だった。 まさか、いくら東大受験生でも、天下の麻布高校生達が束になっても解けない難問をこんなに簡単に解いてしまうとは想像も付かなかったに違いない。 駿台における受験技術の下駄の威力や恐るべし。
翌年3月の東大入試問題が易しすぎて、何か勘違いしているのではと心配になったのも道理である。

そのほか、群馬大学医学部のアルバイト学生(何年生だったか、また何という名前だったか思い出せないが)と一緒にバンガローの布団干しをやったり、山小屋の土台の補強作業を手伝ったり、どれもこれも、体を使う楽しい体験だった。

それ以外の時間は何をしていたかと言えば、持ち込んだ受験参考書には、一切、手をつけず、殆ど大熊家の男の子達や教育大教授の女の子(これも小6)と山登りや沢遊びに興じていた。
まさか、13年後に、この子達と同い年の妻と結婚することになろうとは、当時の私には知る由もなかった。

この一夏の体験は私の鬱屈を吹き飛ばし、将来への夢と希望、そして自信を取り戻させてくれたと言っても過言ではない。
そして再び東京の下宿先へ戻った私は、ひたすら味気ない受験勉強に専念し、翌年の3月いともあっけなく東大入試を突破していた。


翌昭和35年(1960年)の9月、大学に入って初めての夏休みが終わるころ、桐生の自宅に戻っていた私は、ある日の午後、森の家をもう一度見て来ようとふと思いたって家を出た。
自宅から桐生駅まで5分。足尾線現渡良瀬渓谷鉄道 )水沼駅からバスで利平茶屋に着いたときは既に日が傾き、上りケーブルカー(今は廃線になってしまった)の最終にぎりぎりだった。
念のため帰りの時間を確かめると頂上についてから下りの最終便が出るまで1時間くらいしかない。急がなくては・・・・・
はやる気持ちを抑えながらケーブルカーの終点から森の家を目ざしてひた走りに走った。
ああ、あれが森の家だ。微かな煙がみえる。ストーブが燃えているのだろうか。いや違う・・・誰かが落ち葉を焚いているようだ。
近づいて見ると、大熊夫人が竹箒で枯葉を集め、庭掃除をしているところだった。

あいにくご主人も2人の男の子達も留守だったが、帰宅を待っている時間が無いので、赤々と燃える懐かしいストーブにあたりながら暖かいお茶をいただいて直ぐおいとまさせていただいた。

それから今来た道を全速力で駆け下りてやっと下りのケーブルカーに間に合うことができた。
というよりケーブルカーの方で待っていてくれたのかも知れない。

翌日、上京した私は下宿先から礼状を書いた。
写しが残っていないので定かではないが葉書ではなく封書だったと記憶している。

いまでもあの日のことをはっきりと思い出す。
夕暮れの森の家のたたずまい。
枯葉を焚く大熊夫人の端然とした姿。
「風とともに去りぬ」のラストシーンで風の中に立つスカーレットオハラのような・・・・・


ある日わたしは「森の家」をテーマにした歌を作ろうと考えたが悲しいことに私には作曲の才が無い。
そこで世界名曲集のなかで「マギー若き日の歌を」とともに最も好きだった 春の日に合わせた歌詞を作ってみた。

ミレドーレド ドーミーソーファーラードードー シラソーファミ レードレーミー
ミレドーレド ドーミーソーファーラードードー シラソードード レードレードー
ソファミーソードードー ソソラーファードードー シラソーファミ レードレーミー
ミレドーレド ドーミーソーファーラードードー シラソードード レードレードー


昨日から本棚を探しているのだが歌詞を書いたメモが見つからない。とりあえずうろ覚えのまま書いておく。

何時の日か 共に辿らん 懐かしき山路を
何時の日か 共に語らん 思い出の夏の日
あの湖     あの坂道  美しき白樺
今もなお   思い出るは 緑の森の家


何時の日か 共に訪ねん 懐かしき山小屋
何時の日か 共に伝えん 思い出の秋の日
あの夕焼け  あの灯火  美わしき友垣
今もなお   胸に残るは 緑の森の家

何時の日か 共に過ごさん懐かしき山の日
何時の日か 共に偲ばん 若き日の思い出
あの山並み あの森蔭   美しきせせらぎ
今もなお   忘れ難きは 緑の森の家


今あらためて読むと青臭さと拙さに冷や汗が出るが、それも19歳という若さのなせる悪戯と思うことにする。
いずれメモを見つけたら書き直すことにしよう。
いや、見つからない方が良いかも知れない。




後日譚

(2010年1月)
昨年の暮れ、年賀状の宛先を探すため山積みになった書類を整理していたら、 2008年11月15日の新聞切抜きが見つかった。私が急性大動脈解離で意識を失った11月19日のわずか4日前の日経夕刊文化欄、文学周辺第139回、志賀直哉「焚火」に関する記事である。

その中に大沼湖畔の猪谷旅館とその主人の猪谷六合雄(いがやくにお:作品中のKさんのモデル)のことが書かれているが、それだけなら誰でも知っていることで、何もとりたてて言うほどのことではない。
私が驚いたのは、そこにこんなことが書かれていたからだ。

・・・六合雄の姉(猪谷ちよ)の孫にあたる大熊一彦(60)さんが、近くでバンガローを経営していた。・・・


60歳なら私と8つ違い。 ということは、私が森の家でお世話になった19歳の時は11歳で小学校6年生だったはず!
確か一つか二つ違いの弟さんがいた筈だが・・・、それにご両親はどうしておられるだろうか・・・。
と、急に懐かしさがこみ上げてきた。
今まで出したことの無かった年賀状には、 「昭和34年の夏、阿部佳文君と一緒にお世話になった関口です。」と書き添えただけなので、私のことなどすっかり忘れて居られるかもしれない。
返信には、大熊一彦大熊次朗 と連署されていた。
これで、今年の夏には、森の家を再訪するという目標があらたに加わった。


追記(2013年3月3日) 
始めのうちは、回復が顕著だったので、夏には赤城訪問も出来そうだと楽観していたが、そのうちにこの病気と超低温手術の後遺症がそんな生易しいものではないことが分かってきた。その後3年経つが未だに念願を果たしていない。

昨年の夏だったか、阿部君からの初メールで、彼は毎年、躑躅の春と紅葉の秋の2回、大熊さんご夫妻のお墓参りに行っていたが、この春は例年に無く異常に疲れたので、この次から日帰り往復は無理だろうと言ってきた。

来年であれから55年になる。
 ・・・赤城、上田、妙高・・・巡礼の旅を決行する潮時かも知れない。


追記(2013年3月15日)
夕刻、外出先から帰宅すると、赤坂でカラオケレストランWのんのん" をやっている椎名君から桐西会(桐生市立西中学校昭和30年卒同窓会東京分会)の案内メールが来ていた。
残念だが今年も無理だなあ・・と思いながら読んでいくうちに、思わず息を飲んだ。
そこには、こう書かれていた。

・・・今朝、阿部佳文君が急逝しました。 ・・・関口君の赤城山の話を前回の時、嬉しそうに話していたのが最後です。

そう言えば、去年の11月20日付けメールに 「・・・体調を崩し、今年は例年行事である、赤城への紅葉参りもできませんでした。」 と彼らしくない弱気な文言が有った・・・

私の巡礼の旅の第一目標は、彼の果たせなかった秋の赤城詣でを果たすことだ。





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