情報技術の進歩と都市概念の変容

東京情報大学 関口(せきぐち) 益照(ますてる)

都市問題研究』第53巻 第1号(大阪市2001.1)                    


?. 都市問題の概観


1.都市問題の変遷

都市問題における情報技術の可能性を考察する以上、当然のことながら都市問題の全貌を把握しておくべきであるし、そのためには多方面にわたる関連分野の論考を精査すべきであろう。しかし、それは明らかに筆者の能力を超えている。ここでは、本誌既刊号[1]所収の論考を中心に本稿のテーマに関連すると思われる都市問題の変遷を概観するにとどめたい。

 いわゆる「都市問題」が議論されるようになったのは、産業革命を契機とする工業都市の発展、つまり、工場を中心とする都市が出現してからであるとされている。19世紀から20世紀初頭にかけての都市問題とは、産業革命の負の側面、つまり、ディケンズの「オリバー・ツイスト」やわが国の「女工哀史」が物語る工場労働者の劣悪な労働環境や悲惨な生活環境を中心とする工場労働者問題であった。

イギリスにおける田園都市構想(田園郊外)を始めとする20世紀前半の米英における職住分離型ライフスタイルの拡大や都心再開発によるアメニティの追求は、いずれもこの問題の解決を目指したものと考えられるが、その流れは今日のわが国にも受け継がれていると言えよう。

 一方、20世紀の後半に入って重化学工業化、いわゆる重厚長大化が進展し、都市問題の中心が環境汚染(公害)問題に移行すると、その対策として、新たに、都市部工場の郊外移転、中枢管理部門の都心集中、大規模住宅団地の建設等をワンセットにした都市機能の再配置(ゾーニング)政策が導入され今日に至っている。

しかし、これによって、いわゆる工場公害問題には著しい改善を見たものの、こんどは、都市コミュニティの解体、通勤時間の増大、都市活力の減退といった異質の問題が浮上する。そして、工業社会の生産基地としての都市機能を維持するための諸施策の行き着く先が地域社会の解体であり、生活環境の破壊であることが誰の目にも明らかになって来た。

1961年に出版された「アメリカ大都市の死と生」(ジェーン・ジェイコブズ)に始まり、1968年の「パリ五月革命」を頂点とする都市の叛乱は、社会思想におけるモダーンからポストモダーンへの転回プロセスとして位置付けられているが、都市問題の観点からは生活者としてのアイデンティティと生態系としての生活圏を奪回しようとする戦いであったと見ることができよう。

そして、21世紀を迎えた今日の都市に与えられた課題は、上記の歴史的要請のすべてに答えうる新しい都市、すなはち持続可能な都市(サステイナブルシティ)の創造であるとされている。その目指すべき方向として掲げられている目標は、職住融合であり、都市と農村の共生であり、都会文化(アーバニティ)の再生である。これはもはや一に都市問題であるにとどまらず、国家システム全体の設計に係るテーマであるように思われる。

 

2.関連分野からの問題提起

 上述のように、都市の抱える問題はきわめて多岐にわたるが、21世紀の都市のあり方を規定する重要な要因として、『コミュニティ』、『生態系』、『産業基盤』、『国際交流』の4つを選び、それぞれの分野における主張を概観する。

(1)民俗学からの警告

 民俗学は常民の生活文化を研究対象とするが、その主たる対象は農村における常民、つまり農民であった。しかし、都市部への急激な人口移動を背景に都市民の生活文化を研究対象とする都市民俗学が発展し、その過程で今日の都市問題につながるいくつかの問題が指摘されている。その一つは身体性の喪失であり、もう一つは民俗伝承能力の喪失である。

 柳田國男は前者に関連して、『都市と農村』[2]の中で都市民の始まりである京童(きょうわらべ)にふれ、農民と比べると都市民は軽薄で、よく笑い、多弁であると評し、それは彼らが衣食住の材料を自分の手で作らぬこと、つまり、土の生産から離れたことから来る心細さや不安の現れだと指摘している。そして、「鄙の中に都を、都の中に鄙を」と和製田園都市構想ともいうべき都鄙連続体論を提唱した。

 また後者についても、『明治大正史・世相篇』[3]の中で、文化の中央集権が伝統的生活文化を消滅させていく状況に対して「嘗て日本人が一様に同じ流行に巻き込まれて悦ぶといった不思議な現象はなかった」と慨嘆し、その弊害を警告している。ただし、ここでいう文化の中央集権とは必ずしも国家権力によるものだけをさしているわけではなく、工業社会化に伴う構造問題をさすものとして捉えるべきであろう。例えば、1930年代から始まった戦時学校教育における方言と遊びの追放にもかかわらず、戦後間もない1947年の山形市内小学校6年生に対するアンケートによれば、男女それぞれのグループが知っている遊びの種類は、男子が91種類、女子が89種類に達している。子供の遊び文化に対して壊滅的な影響を及ぼしたのは、1958年頃に始まった自動車とテレビの普及であったと考えられる[4]

(2)環境科学からの提言

 進士五十八は『都市、緑と農』[5]の中で、先進諸国の大都市は長い間農村を都市化してきたが、その過程で、大都市から自然を排除するばかりでなく、農業の工業化によって農村の生態系まで破壊してきたと警告し、いまや、都市の農村化(生態系の回復)を真剣に考えるべきだと提言している。以下はその要点である。

?    生き物としての人間の居住は元来、すむ機械である『家(ハウス)』と自然の一部である『庭(ガーデン)』から出来ている。敷石で固め尽くされていたと思われがちな古代ギリシャ・ローマの都市住宅にも必ず奥まったところに菜園(クシュクトス)がついていた。両者が揃って始めて『家庭(ハウス アンド ガーデン:ホーム)』の安らぎが得られるのであって、『家(ハウス)』だけの居住では事実上ホームレスと大差ない。

?    大都市は、その中に自然(生態系)をシステムとしてとりこむ努力をし、エコシティを目指すべきであるし、農村は、都市化によって破壊された景観を修復し、かつてイザベラ・バードによって東洋のアルカディアと賛嘆されたような原風景を再構築すべきである。また、ヨーロッパ諸国で一般的な市民農園を普及させるなど、都市住民が農村生活を楽しむ生き方―エコ・ライフスタイルの定着をはかるべきである。 

(3)政治経済学からの示唆

 村上泰亮は『反古典主義の政治経済学』[6]の中で、世界の、そして日本の今後のあり方を決定する最も基本的な要因、いわば時代の基底を流れる通奏低音として、[産業主義]対[反産業主義]、[ナショナリズム]対[インターナショナリズム]および[経済的自由主義]対[経済的平等主義]という3つの対立軸をあげ、21世紀全般における世界の潮流を論じている。都市問題との関連で言えば、第1の対立軸は大都市集中を出現させた原動力である産業化の行く末に係るテーマであり、また、第2の対立軸は世界に開かれた都市・地域像をどう描くかに係るテーマである。

? 産業主義とは、人間のあらゆる経済活動を産業化していこうとする思想であり、経済学者は産業化を『一人頭の生産性ないし所得の持続的成長』と定義する。それを支えているのは、「平均的人間が自然の把握・操作・改変を推進できるし、それが正しくもある」という信念に他ならない。

反産業主義は、これに対するアンチテーゼであり、『人間は世界の中心ではないし,世界を操作し自然を征服する使命を与えられているわけではない。宇宙的調和や生態的秩序を俯瞰してそれを認識する超越的主体であるかのように振舞うとき、人類は自らを破滅に追い込むことになる』という考え方である。ただし、環境主義運動もその多くは人間にとって都合のよい環境を要求するものであり、そうであるかぎり産業主義の変形に過ぎない。今後数十年の間は、産業主義が反産業主義からの異議申し立てに応えつつさらに高度な段階―スーパー産業化―に進む。スーパー産業化の特徴は、19世紀および20世紀の産業化がそれぞれ製品への『機械動作』投入量および『エネルギー』投入量の増大によって達成されたのに対して、今度は『情報』投入量の増大によって達成されるところにある。

? 厳密な意味でのナショナリズムとは、近代ヨーロッパに歴史的例外として成立した国民国家主義をさす言葉であり、その要件は、ネーション、主権国家、領土国家の3つが完全に一致していることである。日本は、たまたまその条件をみたした数少ない例外の一つであり、世界の多くの国々、中国や米国、大半のアジア・アフリカ諸国はいずれも国民国家ではなくその擬制にすぎない。

 今後の世界は、擬制国民国家を含む広義のナショナリズムを基本としながらも、国家間の協調を重視する動き(インターナショナリズム)に加えて、歴史的例外としての国民国家の枠を離れた地域・文化単位の関係を重視する動き(トランスナショナリズム)が台頭するだろう。 

 

.次期全国総合開発計画『21世紀の国土のグランドデザイン』[7]がめざす都市像

 次期全国総合開発計画は、「地域の自立の促進と美しい国土の創造」をスローガンとして、戦後一貫して続いて来た東名阪中心の一極一軸型国土構造を地域主体の多軸型国土構造に転換しようとする画期的かつ野心的な構想を掲げ、その実現方策を(表1)のような5つの課題と4つの戦略として提示している。

          (表1) 次期全国総合開発計画の課題と戦略

5つの課題

4つの戦略

? 自立の促進と誇りの持てる地域の創造

?国土の安全と暮らしの安心の確保

?恵み豊かな自然の享受と継承

? 活力ある経済社会の構築

? 世界に開かれた国土の形成
? 多自然居住地域の創造

? 大都市のリノベーション

? 地域連携軸の展開

? 広域国際交流圏の形成

                  21世紀の国土のグランドデザイン』(国土庁)より作成

これらの一つ々々についての議論は割愛するが、4つの戦略の具体的展開策を一読すると二つの方向が見えて来る。一つは、都市・農村を有機的に連携させることによる新しいライフスタイルの実現であり、もう一つは、その舞台としての国際競争に耐える美しい都市および地域の実現である。これらの施策と前項で取り上げた諸問題との対応関係を(表2)に示す。これで見る限り、21世紀のわが国が目指すべき国土像については、一定の合意が形成されていると考えてよいと思われる。

        (表2)次期全国総合開発計画における都市問題関連施策

各分野からの問題提起

対応する施策

都市の再生

戦略?

職住融合

戦略?、?

コミュニティの再生

課題?、?、戦略?、?

エコ・ライフスタイルの形成

課題?、戦略?

都市と農村の共生

課題?、戦略?、?

景観の保全と創造

課題?、?、戦略?,?、?

啓かれた産業主義

課題?、?、戦略戦略?、?

啓かれたナショナリズム

課題?、戦略?、?

 

?. 都市問題と情報技術

 前述のような都市を巡る諸問題に対して情報技術がいったい何をなしうるか、また、その限界はどこにあるか。それを考察するためには、まず情報技術の持つ本質的に特異な性格とその機能を明らかにしておく必要がある。 

.情報技術の特殊性

 そもそも情報技術とは何か、その定義は必ずしも明確ではない。しかし、コンピュータおよび通信網に関わる技術、さらにそれらの基盤となる半導体技術が含まれることに異議はないであろう。これら3つの技術にはそれぞれ他の技術に見られない特異な属性が存在する。

(1)コンピュータ:効用実現の不確定性

 コンピュータは、それ自体では何も出来ずソフトが搭載されて始めて仕事をするということは今日では誰でも知っている。しかし、重要なことは(表3)に示すようにソフトには少なくとも3種類あるということである。

(表3) ソフトウエアの分類

 

量産ソフト

特注ソフト

消費財(コンテンツ)

? 量産消費財

  ゲームソフト

ビデオソフト

? 特注消費財

生産財(ツール)

? 量産生産財 

 OS,ミドルウエア

 汎用アプリケーション(表計算ソフト等)

? 特注生産財

専用アプリケーション

(基幹業務ソフト等)

 ソフトには消費財としてのソフトと生産財としてのソフトがあるが両者はまったく性質を異にする。いったい何が異なるかというと前者は特別の知識や技能がなくても一定の効用が実現するのに対して、後者においては、技能レベルによって実現する効用に格差が生ずるということである。これは、家電とコンピュータの本質的相違でもある。

つまり、同じ量産ソフトでも消費財としてのゲームソフトは工場出荷時点で効用が確定(固定)しているのに対して、生産財である表計算ソフトは工場出荷時点では最終的な効用が確定しない半製品であり、ユーザーのITリテラシーという属人的無形ソフトが搭載されて始めて効用が確定するということである。

 一方、特注生産財である基幹業務ソフトは、半製品として出荷されたシステムにオーダーメイドの専用ソフトを搭載して最終効用を実現するものであり、この場合、実現する効用水準はシステム開発能力のレベルに依存する。この分野は、従来、企業の情報システム部門の仕事であったが、最近は情報サービス業者が開発、運用をすべて肩代わりするアプリケーションサービスプロバイダー事業が盛んになっている。

特注消費財というジャンルのソフトはいまのところ存在しないが、今後どのような形で登場するかは予断を許さない。

 以上のように、一般的な業務システムというものは、ハードウエアの上に、OS、ミドルウエア、汎用アプリケーション、専用アプリケーション等のソフトを積み重ね、それを利用者のITリテラシーで操縦することによって具体的な効用を発揮する。これはインターネット時代においてもまったく変わらない基本構造である。従って,インターネットの将来を考えるにあたっては、それが、単なる電話の進化形ではなく、本質的にコンピュータシステムであることを忘れてはならない。

(2)半導体:技術進歩の加速性

 半導体の加工精度はほぼ3年で2倍になり、集積度は2の2乗=4倍に向上する。このシリコンサイクルとして知られる経験則は発見者の名をとってムーアの法則とよばれているが、すでに20年以上続いており、今後も長期にわたって継続すると見られている。

これは15年で1000倍、30年で100万倍に達することを意味する。つまり、将来ごく普通の人々がその職業生活の間に100万倍も進歩する道具を相手にすることになるということである。現に最近の携帯電話に搭載されているプロセッサの性能は、すでに筆者が30年前に日夜格闘した国産最大型コンピュータの性能を凌駕しているのである。

そしてこのような指数関数的な量的進歩は、ある段階で臨界点に達すると質的な進歩(進化)の引き金を引く。筆者の経験では、10の3乗=1000倍に達するあたりで主役が交代するような大きな変化が起こって来た。しかし、今後15年経ったとき何が起こっているかを予想することは二重の意味で難しい。二重という意味は、まず何事であれ15年も先のことを予測するのは難しいということと、前述のように情報技術において、ハードウエアの進歩はそれ自体新しい機能を生み出すわけではなく、単にソフトウエアの自由度を広げるだけだという効用実現の不確定性が存在するからである。ハードウエアの進歩によって蓄積されたポテンシャルをどのような機能(効用)に変換するかは殆どソフトウエアに委ねられている。言い換えれば、15年後にハードウエアの性能が1000倍になるということはほぼ必然であるが、それによってどんな機能が実現するかについて技術的な必然性はないということである。したがって重要なことは、何が起きるかではなく、何を起こすかを考えるべきだということになる。

(3)通信網:効用増大の外部性

 通信網に限らず多数の参加者が情報を交換するネットワーク型組織においては、メンバーの数が増えるとそれだけで自動的に全メンバーの効用が増大する。このような効果を経済学ではネットワークの外部性(Externality)と呼び、OSやネットワーク業界における一人勝ちや市場標準(De Facto Standard)形成の重要な要因と見なしている。

 しかし、このような考え方は、『全国津々浦々遍く均一な(universal and uniform)』サービスの提供を義務付けられていた伝統的通信事業には当てはまっても、これからのインターネットの世界には必ずしも当てはまらないのではないかと考える。というのは、(図1)に示すように、インターネットは単に通信網の発展型であるばかりでなく、コンピュータシステムにおける多彩なオンラインアプリケーションの発展型でもあり、現在の姿は加速しつづける技術進歩の過程で両者が交差した一通過点に過ぎないからである。

    (図1) インターネットの発展方向

          コンピュータの発展

.次期全国総合開発計画における情報技術の位置付け

『21世紀の国土のグランドデザイン』における情報技術に関わる記述は、(表3)に示すように、第4章 産業の展開に関する施策(第2節 知的機会の充実による知識財産業等の地域的展開他)と第5章 交通・情報通信体系の整備に関する施策(第2節 情報通信体系の整備)に集約されている。

 

   (表3)次期全国総合開発計画における情報技術関連施策(  部分)

章節

テーマ

第4章

第2節

      (1)

      (2)

      2

産業の展開に関する施策

知的機会の充実による知識財産業等の地域的展開

知的機会の充実

情報通信を活用した知的機会の均等化

学習、職業能力開発に係る機会の充実

知識財産業等サービス産業の新たな展開

   第4節

1

(4)

農林水産業の新たな展開

農業の新たな展開

高度情報通信等新たな技術を活用した安定的農業生産の確保

     5

3

多自然居住地域における産業の展開

高度情報通信の活用による産業および就業機会の創出

第5章

 

第2節

      1

      

      2

      3

      4

交通、情報通信体系の整備に関する施策(世界へのアクセス機会均等化、都市サービス等各種機能へのアクセス機会均等化)

情報通信体系の整備

情報通信体系整備の基本目標(機会の均等化、全国ネットワークインフラの整備、情報活力空間の構築)

利用条件均等化のための情報通信体系の整備

高度で安定的、効率的な情報通信体系の整備

高度情報通信社会の形成を先導する環境の整備(ネットワークインフラ、コンテンツ、アプリケーションの好循環を起動)

                  21世紀の国土のグランドデザイン』(国土庁)より作成

 これらの施策は、大別して、全国均一情報通信網の整備および各地域における各種情報インフラの整備の2つに集約される。前者のねらいは、交通網の整備と一体となった各地域における各種アクセス機会の均等化であり、後者のねらいは、各地域における新たな産業創出である。

しかし、アクセス機会については交通体系に関する記述が「全国1日交通圏」「東アジア1日圏」など具体的目標が示されているのに対して、情報通信に関しては「情報活力空間」なるスローガンは掲げられているものの、具体的な役割としては「交通の代替」など補完的な機能があげられているだけで、圏域形成への積極的役割は示されていない。

 また、新産業の創出に関しても、多自然居住地域における情報サービス、ソフトウエア等の展開が謳われ、事業・生活環境の改善によるUJIターンの促進、リゾート型サテライトオフィスの提供、さらに自治体の公的アプリケーション開発等を梃子にした需要喚起策などが提案されているものの、基本的に一有望産業の振興策に止まっており、情報技術を圏域形成戦略の遂行手段として位置付けるには至っていない。それは恰も、5つの課題と4つの戦略の殆どを情報技術の助けなしに実現しようとしているかのようである。

 このように、次期全国総合開発計画における情報技術の位置付けは、整備すべき条件の1つというどちらかと言えば消極的なものであり、政府が唱える情報技術立国の掛け声にも関わらず、国土構造転換のための情報技術戦略はまだ存在していないと言えよう。

 

.都市形成における情報技術の役割

 上述のように、わが国における情報技術政策はいまのところ情報技術産業政策の段階にとどまっており、国家戦略の遂行手段としては認知されていない[8]。それは単に情報技術の重要性が一般に認識されるようになってから日が浅いからというだけでなく、一つには、前述のような情報技術の特殊性に由来すると思われる。つまり、その進歩があまりにも早く、しかもそれによって実現する効用が不確定であるため、これを戦略的に活用できるのは、情報技術(IT)に精通した一握りの人々−IT発明家およびIT起業家−に限られているという事情による。しかし、このことは逆に、白地に戦略を描く構想力と海図なき航海に乗り出す起業家精神なくして21世紀の都市像は語れないということでもある。

 そこで、(表2)に掲げた21世紀の都市像を実現するために、情報技術に何が出来るかについて、都市の産業、生活、文化の3つの観点から可能性を探って見たい。

(1)産業空間としての都市と情報技術

ここで産業空間とは、都市の経済活動を支える機能の全体という意味であるが、特に情報技術と関わりが強いと考えられる3つの機能、情報結節点機能、交通結節点機能、そして産業拠点機能について情報技術の影響を考えてみよう。

 これらの機能については、一般に情報通信による交通の代替、軽薄短小化による物流の節減、事業立地制約からの解放等が指摘されており、その結果、交通結節点としての役割が後退し情報結節点としての役割が増すという主張がある。しかしことはそう単純ではない。今後インターネットがさらに浸透すれば、衛星を含むオープンネットワークによる相対(あいたい)通信が一般化し、情報通信の拠点という概念はなくなるかも知れない。また、それ以上に有りうることは、かつてテレビ放映が大相撲の観客を爆発的に増やしたように、インターネット上でのアクセスが一定の閾値を超えたとき、一気に爆発的な交通トラフィックを発生させる可能性であろう。

 先にも触れたように、インターネットは単なる通信システムではなく、その上に多様なアプリケーション・プラットフォームを搭載しうるコンピュータシステムであることを考えれば、通信トラフィックと交通トラフィックの関係は、代替関係よりもむしろ相乗関係で捉えるべきであろう。ただし、重要なことは、通信トラフィックの集中するサイトの所在とそれが生み出す交通トラフィック発生地はまったく独立していると言うことである。したがって、スーパー産業化時代の産業拠点は、まさにそのような連鎖反応を媒介する複数の拠点を中心とする超楕円構造をなすと考えられる。

(2)生活空間としての都市と情報技術 

 生活空間とは、都市をそこで生活する個人(通勤者も含む)の立場から見た諸機能のことであり、ここでは仕事空間、生活サービス空間、そして自然空間の3つに分けて考察する。

 個人に対する情報技術の影響には、一人々々の能力の拡張(エンパワーメント)およびさまざまな情報空間(アプリケーション・プラットフォーム)の出現という2つの側面がある。

 前者は、例えばネットワークによる情報アクセス能力の拡大や、ソフトウエアによる高度な情報処理能力の獲得であり、言わば仕事空間の拡大である。それがいかに強力なものであるかは、自作の無料OSであるLinuxを開放してマイクロソフト社を脅かしているリーナス・トーバルズや自分の同窓会用に作ったホームページを事業化して150万人の会員を擁するに至った「ゆびとま」の小久保徳子などの例が証明している。

 また後者の例としては、すでにパソコン通信における趣味のフォーラムや電子ショッピングのためのサイバーモールなどが登場している。今後、動画像を含む大容量通信が普及するとともに、行政、民間を問わずさまざまな臨場感ある生活サービス空間が構築されるはずである。これは言わば生活空間の拡大であり、住民は複数の自治体や企業、あるいはボランティアグループの運営する生活サービス空間の間を自由に移動し、それらと実空間とをごく自然に使い分けるようになるだろう。

 では都市における自然空間とは何か。進士[9]の定義によればそれは生物が繁殖しうる空間(生態系)である。したがってポットの草花は自然ではないということになる。つまり、自然空間とは、まさに物理的な意味でも自然空間でなければならないと言うことである。

 そこで都市の自然空間に対して情報技術の役割は何だろうか。もちろんその一つは、農業情報システムや環境監視システムなどの生態系インフラとしてのそれであろう。しかし、より重要な役割は、今後確実に膨張するであろうサイバーコミュニティに生態系との連動性を付与することにあると思われる。つまり、母校のホームページで風に戦いでいる懐かしい樫の木は、1年前の映像ではなく、いま現在の実時間映像だと言うような。

それはちょうど、金融工学の公式に基づいて自在に設計されるいわゆるデリバティブ(金融派生商品)がその裏付けとして現実に存在する株式や債券とリンクしているのと同じである。生活空間としての情報空間は、それが生活空間の拡張である以上、自然空間とのつながりを持たないかぎり、健全に発展することは出来ないのではなかろうか。

(3)文化空間としての都市と情報技術

 ここでは都市における文化空間を、人々を都市にひきつける魅力ないし磁力として働いている非経済的機能と定義する。図書館や美術館のネットワークはもちろん文化の場ではあるが、ここではもっと広く、遊びや祭り、さらに盛り場の賑わいまでも含めて考えたい。これはアーバニティの一要素であり、また非日常性と言い換えることもできよう。

わが国の問題は、東京のアーバニティが突出しているため、世界に類のない人口集中を引き起こし、それに歯止めがかからないことにある。それが問題とされるのは、それが「日本型核家族化」、「地方の過疎化」、「コミュニティの解体」、「伝統や伝承の消滅」の元凶だと見なされているからのようである。それぞれの現象には明らかに他の原因があるが、それを助長したことは確かであろう。

では情報技術でこれに歯止めをかけられるだろうか。地方分権政策が断行されることを前提として言えば、おそらく短期的(1世代以内)には無理だとしても長期的(23世代後)には可能と思われる。その理由は、まず、第1に都市経済を支える技術体系が、これまでの集中立地型の機械・エネルギー技術から今後は立地中立型の情報技術に変わることである。これは12世代後にはボディブローのように利いてくるはずである。

第2の理由は、人々のイメージする東京の中心性が相対化することである。つまり、人々の生活空間が前述のように情報空間に拡大されることにより、まず、生活空間における東京の中心性が希薄化する。次いで地域国際航空網の整備により、人々の描く世界イメージが、地元/東京/海外 から 地元/アジア/世界 にシフトすると考えられる。

 そして第3の理由は、インターネットのブロードバンド化がメディアにおける一極集中を解体するからである。現在依然として東京への集中が続いている要因のかなりの部分はすでに実態のなくなった中心イメージがテレビを始めとするマスコミによって増幅されているからだと思われる。これは、優れた文化を発信しているから中心なのではなく、中心だから中心だというに等しく、まさにバブル的様相を呈しており、バブルである以上、いずれ弾けることは避けられない。その引き金はインターネット上のさまざまな比較サイトの攻勢によって引かれることが予想される。

?.  都市概念変容の予兆

 次期全国総合開発計画が描く国土像は、明治以来100年余にわたって形成されてきた近代化・工業化(産業化)路線の軌道修正であり、その完成像は100年先を展望したものである。この大転換によって人々の都市観がどのように変わっていくかを予測することは至難の業である、というよりも無意味なことであるかも知れない。しかし、人々の都市観の基礎をなす諸要因に情報技術がどのような影響を与えるかを検討することは出来る。

そこで、人間がイメージする世界が「事物」、「他人」、そして「自分」という3つの要素から構成されている[10]ことに着目し、「事物⇒都市圏域」、「他人⇒都市間競争」、そして「自分⇒住民意識」の3つの観点から情報技術の可能性を考察する。

.都市圏域の多元化

 人はさまざまな生活シーンに対応して、仕事空間、生活空間、祭り空間、ふるさと空間といったさまざまな行動圏を移動しながら暮らしている。これまで一般の人々がそのような複数の行動空間を意識することはなかったが、21世紀の都市市民は否応なくそれを意識するようになるだろう。つまり、サイバー空間上に目的に応じた多様なサービス空間が実空間と連動したリアリティを持って登場してくると、同じ町の同じ広場が目的によって別の空間に属することが視覚化されることになる。このような環境のもとで幼児期を過ごす世代は、ある次期のあるサイトのある景観を原風景としてインプリントされ、同郷意識をもつかも知れない。

 これを都市の圏域という観点から見るとどういうことになるだろうか。サイバー空間上のサービス空間には物理的限界がないことを考えれば、隣接する都市のサービス空間とクロスオーバーすることは必然である。時には自らのコンピュータ上で勝手にはるかに離れた地域のサービス空間と連結してしまう者もいるだろう。ここではもはや行政区画は無数にあるサービス空間の一つであるに過ぎない。このような住民一人々々の行動の多元的な分布として都市圏域が規定されるとすれば、それはまさにデファクトシティ(De Facto City)である。行政区画の変更や広域連合などの公的対応は、このデファクトシティを追認する形で進行することになるだろう。

.都市間競争の流動化

21世紀における都市間競争の特徴として、実時間格付け、広域競争、質的競争の3点を挙げることができる。

実時間格付けというのは、インターネット上の様々な比較サイトによってすべての都市・地域が債券やレストランのように格付けあるいはランキングの対象として俎上に乗せられるということ、言いかえれば都市・地域が四六時中市場の評価に晒されるということである。これらのサイトにおける比較基準には合理的なものもあろうし、そうでないものもあるかもしれない。しかし、人々によって支持されている(たとえば訪問者による投票)かぎり、それに異議を申し立てることは難しい。むしろ積極的な情報開示(たとえば街区の24時間実況放映など)によって評価を高める努力をせざるをえなくなるだろう。

 広域競争とは、それぞれの都市・地域は隣接するそれらとの競争以上に遠隔の圏域を相手とする競争に力を入れなければならなくなるだろうということである。なぜなら隣接する都市・地域は前述のようにサービス空間のクロスオーバーによって有機的な統合関係にはいっていくと考えられる一方、格付けの対象は全国から近隣各国、さらに世界に及ぶからである。このような都市・地域間の大競争はこれまでの姉妹都市などとは異なる戦略的な合従連衡を促すと考えられる。そのような競争に対応できる人材を確保するためにはUJIターンに加えてSターン(Silicon Valley帰り)なども動員することになるだろう。

 また質的競争とは、都市や地域が同じ基準や目標で量的競争をするのでなく、つまり、小都市が中都市を、中都市が大都市を目指すような競争ではなく、田園と都市が連携して他の地域と各々の独自性を競うということである。これは、後述するように自ずと歴史や生活文化の競争に帰着するだろう。その予兆はすでに世界の車窓風景を紹介するテレビコマーシャルが人々の共感を得ていることに見ることができる。

.住民意識の歴史回帰

前述のように次期全国総合開発計画の基本理念は、明治維新以来100年余の産業化路線に対して今後100年を展望した軌道修正に踏み切ろうとするところにあると謳われている。そうであるならば、それは単に国土の建設計画であるだけでなく、同時に新しい郷土と歴史の建設計画でもなければならない。

しかし、わが国のように長い歴史を持つ国における新国土像を300年前の米国のように白紙の状態から描くことはできないし、仮にそうしたとすれば確実に挫折するだろう。なぜなら、戦後世代における愛国心や愛郷心の喪失、あるいはまた家族の崩壊が叫ばれて久しいが、それにもかかわらず、そうした価値を希求する情念は消えていないし、むしろマグマのように社会の表層を突き破ろうとしていると考えるからである。それは、かつて『土地=田畑』に縛り付けられていた『農民』が明治維新で近代産業国家建設のための『国民・県民』になり、戦後の企業社会における『社員』を経て再び『市民』として『土地=ふるさと』に帰ろうとする胎動であると言えよう。

このような、言わば人々の歴史回帰に対して情報技術がどのような役割を果たしうるだろうか。おそらくそれは、サイバー空間の歴史回帰および歴史・伝承のサイバー空間化という2つの方向でかかわりを持つことになるだろう。

サイバー空間の歴史回帰が必然だと考える理由は、情報というものが本質的に共有されるものであり、同じ情報を各地においても意味がないことに起因する。つまり、まったく同じ蔵書を持つ図書館を各都市が持つことは無意味なことではない。しかし、インターネットでどこからでもアクセスできるサイバー図書館の場合、同じ蔵書の図書館を各地のサイトに作ることはまったくの無駄である。したがって、サービス空間のサイバー化が進めば進むほど、ここにしかないという内容(コンテンツ)の重要性がクローズアップされ、それ以外は無価値であることが明らかになってくる。そのとき、絶対にここにしかないことが未来永劫に保証されているものとして最後に残るものは何か、といえば、それはまさに歴史だということである。

では、歴史のサイバー空間化とは何かというと、それは民俗学者がその記録採取に悪戦苦闘してきた伝承のマルチメディア化である。民俗学の教えるところによれば、もともと伝承とは口承(口伝え、物語)であり、身体性を帯びた体験の継承であった。それが識字率の向上と学校教育のために書承(書き伝え、聞き書き)に変わっていく過程でその体験性、身体性を喪失していったと言われている。今後10年も経たないうちに口承文化は消滅してしまうということである。また、一方において流行の渦の中でめまぐるしく変転する都市文化を伝承することの困難さが叫ばれており、そのかなりの部分は映像記録に依存するようになりつつある。つまり、ここで指摘したいのは、現代の若者の間に広がる活字離れや映像文化は、学力低下との関連から否定的な側面のみが強調されているが、長い歴史の時間軸の中で見れば、文化の継承手段としてはむしろ正統的な姿だということである。したがって、21世紀の日本は、19世紀の植民地争奪戦の過程でわが国に数10倍する博物を収集した西欧諸国の後を追うのでなく、世界をリードするマルチメディア技術を駆使して新しいタイプの生活文化とその歴史を創造していくべきであろう。 



[1]都市問題研究 第52巻 第9号 特集『都市論の展望と課題』

[2]柳田國男『都市と農村』1929(『柳田國男全集』29 ちくま文庫 1991

[3]柳田國男『明治大正史 第4巻 世相篇』朝日新聞社 1931

[4]佐野賢治他『現代民俗学入門』吉川弘文館 1996 248

[5]進士五十八『都市、緑と農』農大出版会 2000

[6]村上泰亮『反古典主義の政治経済学-進歩史観の黄昏』中央公論社 1992 41-46

[7]次期全国総合開発計画『21世紀の国土のグランドデザイン』国土庁 1998

[8]米国企業ではすでに1980年代から、日本企業においても1990年代後半には、情報技術を
  単なる業務効率化手段ではなく、事業戦略遂行手段として位置付ける考え方が定着しつつある。

[9]進士五十八 前掲書 28

[10]村上泰亮 前掲書 42


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