1993年度(第10回)「高橋亀吉記念賞」優秀作受賞論文

「競争的広域行政機構による郷土の再興」


[要約] 

今日、多くの日本人は、維新以来の中央集権政治の帰結である三つの喪失感、すなわち、郷土の喪失、家庭の喪失、そして誇りの喪失に耐えきれなくなっており、それを取り戻したいという本能的な衝動が制度改革の原動力になっている。
従って、いまなすべきことは、この三つの喪失感を充足感に換えることを目指す新しいシステムを設計することである。
そこで、情報システム設計の原則を導入し、自治体主導の競争的広域行政機構による漸進的分権化構想を提案する。

はじめに・・・

政治改革や行政改革に関する論議が盛んである。その多くは現システムの欠陥を声高にあげつらうか、改革の難しさをいたずらに慨嘆してみせるだけに終わっている。しかし、いま私達がなすべきことは改革を論ずることではなく、改革のための具体策を考えることある。なぜなら、今日の日本が歴史的な転換点にあるということは、ほとんどの国民が直観的に認識している「事実」だからである。

つまり、大多数の日本人は明治維新における中央集権化の遺制、第二次大戦における国家総動員体制の遺制、そして戦後における占領行政の遺制がもはや耐えがたいまでに自分たちの生活を歪めているという事実を肌で感じ、それを振り捨てたいという本能的な衝動に突き動かされているのである。

それは現システムの耐用年数が尽きつつあることの証しであり、またそうである以上、いかなる抵抗があろうとも現制度の改革は不可避だということである。そこで、いま必要なことは、改革を阻害する要因などは度外視して、一刻も早く現システムに代わる新システムを設計し、そこへの移行計画を練ることであろう。

ところで、私がこれまで企業における情報システムの開発に携わってきた経験によればこのように巨大かつ革新的なシステムの成否は情熱と理性と力の三拍子がどれだけ揃うかによって決まるといってよい。ここで情熱とは、そのシステムの必要性に対する人々の確信と支持であり、理性とは、工学的な発想で目的に合致したシステムを設計することである。また、力とは、抵抗を突破してそのシステムを組織に受け入れさせる強制力である。

これを行政における地方分権化という本稿のテ−マに当てはめると、「情熱」は行政システム改革に対する人々の支持であるから、これはすでに潜在的には充たされつつあると言える。ただし、これを改革へのエネルギ−として結集するためには明確な青写真の提示が必要である。つまり、「理性」による合理的なシステム設計がなされなければならない。しかし、これはまだほとんど未着手の状況にある。また、「力」は地方分権を全国的に押し進めるための強制力であるから、いまのところ必ずしも機能していないと言えよう。そこでこれをいかにして生み出すかが大きな課題である。

そこで、以上三つの論点、つまり、・なぜ人々が制度改革を渇望するのか、・人々を真に満足させる制度改革とはどのようなものであるべきか、・改革を実現するためのエネルギ−をどこに求めうるかについて、企業経営およびシステム設計に携わる立場から提言をこころみたい。

なぜ地方分権か・・・

今日の私達の生活は、三つの後遺症に悩まされている。その第一は、明治維新における廃藩置県と中央集権化の帰結としての地方の空洞化と郷土の喪失であり、第二は、大戦下の国家総動員体制の帰結としての父権の空洞化と家庭の喪失である。そしてその第三は、戦後の占領行政の帰結である主権の空洞化と誇りの喪失である。

いま広範な人々の間に沸き上がりつつある政治改革への声は、これら三つの喪失感に耐えきれなくなった私達日本人一人々々の悲鳴とも言うことができよう。したがって、政治改革も、その要としての地方分権も、これら三つの空洞化の流れを一挙に逆転させ、三つの喪失感を充足感に転ずることを目指すものでなければならない。

以下では、これら三つの空洞化現象がいかに私達の生活を歪めているか、またそれを放置したとき、いかに破局的な事態が予見されるかを示し、さらに、それを回避するためには地方分権化が不可避の課題であることを示したい。

                                          (1)中央集権化の帰結−−−郷土の喪失

明治維新における最大の政治改革は、廃藩置県による中央集権国家の樹立であった。それは、当時の帝国主義列強による包囲網の中でとりえた唯一最良の選択だったと言うべきだろう。しかし、一方において、その副作用もまた大きかったと言わなければならない。

つまり、藩という独立政府が廃され、県という中央政府の地方統治機構にとって代わられたその日から今日に到るまで、私達日本人は、地縁・血縁に支えられた郷土愛という歴史的連体感、そしてそれによって育まれた多様な文化を喪失する道をたどり続けたのである。

たとえば、幕藩体制下の江戸は、異なる文化を持ったミニ国家(各藩)の人士が往来するミニ国際都市だったと考えることができる。そして、それ故にこそ、異質の文化を背後にもつ人々に共有される普遍的な学芸や文化(武士道もその一つ)を生み出すことができたと言えよう。

しかし、今日の東京にそのような文化の交流があるだろうか。いまの東京にあるのは私的な利益にもとづくコネクションのネットワ−クのみである。文化を装った商品は次々と登場するが、それらは流れに浮かぶうたかたにも似て、かつ消えかつ結んで止まることがない。

こうして、百年余の長きにわたってつき固められてきた一億人の同質集団の私的ネットワ−クから真に新しい、そして普遍的な文化が誕生することを期待することはできないし、まして外国人がその中に入りこむことはほとんど不可能である。これを変える方法はおそらくただ一つ、一億人の同質集団そのものを多数の独立した小集団に分断するしかないだろう。そして、もしこれを放置すれば経済摩擦以上に根の深い文化摩擦の激化は避けられないと懸念される。

廃藩置県のもう一つの側面は、地域社会を国家による統治の都合で再編成したことである。つまり、県は単純に藩を一対一で置き換えたものではなく、藩の分割や統合によって設置されたものであった。その結果、多くの日本人にとって同県人という言葉が必ずしも同郷人という意識を呼び起こさないという状況が生じている。

たとえば、私の家は祖父の代から群馬県桐生市に住み、私自身、高校時代までをそこで過ごしている。その私にとって郷土という意識が持てる地域は、市内を同じ渡良瀬川が貫流し、赤城山を遠望する地域、いわゆる「両毛地区」であり、その中には栃木県に属する足利市や佐野市も含まれる。断じて、前橋や高崎を含む「群馬県」ではないのである。

これと同様の話は大分県や福島県など全国いたる所にあると聞いている。廃藩置県から百年余を経てなお消滅することのないこのような意識は決して無視すべきではないだろう。なぜなら、それは郷土というものの本質をなす自然と不可分のものであり、地域の人々が共有する原風景によって支えられているからである。したがって、どんな制度改革もこのような郷土愛を基礎としないかぎり長期にわたって人々の支持をうることができるとは思われない。そして、地域住民の政治参加への意欲を削ぎ、ひいては民主主義の基盤を危うくすることにもなりかねないと考える。


(2)国家総動員体制の帰結−−−家庭の喪失

最近、1938年の国家総動員法に始まり40年代初頭に制定された一連の戦時立法に注目し、その後遺症に言及する識者が少なくない。つまり、株主権の制限による従業員権限の強化や給与からの源泉徴収制度、そして業界団体を通じた行政指導体制など、今日その反社会性が問われている仕組みの大半がこの時期に導入されたものであり、しかも戦後廃止されるどころか一層強化されて現在も威力を発揮しているとの指摘である。

この問題は一般に企業の共同体化とその功罪という観点から論じられるているが、それは問題の本質を見誤った議論だと言わなければならない。なぜならば、共同体というものは、村落であれ都市であれ、基本的には独立した個人の対等な関係を基礎とする連帯組織であるのに対して、企業と従業員の関係は、実際に勤めてみればすぐ判ることであるが、あくまでも命令と管理によって統制される服従の関係だからである。

したがって、国家総動員体制のもとで起こったことは、企業の共同体化ではなく、企業の軍隊化であり、その本質は、「私」である家庭に対する「公」としての企業の絶対的優先であった。そして、問題の本質は、今日なお、ほとんどの日本企業が仮想敵に対する戦闘態勢を保持したまま、従業員に対する無制限の献身を期待しているということである。そのため多くのサラリ−マンが、社会に対しても家庭に対しても正当化できない使命のために家庭を犠牲にし、誇りを持てない存在に堕しているのである。

このような状態を放置すれば、個人にあっては父親の権威の空洞化と家庭の喪失、また国家にあっては国際社会から容認されない敵対的存在として孤立の道をたどることになるだろう。そこで、いま求められているのは、企業とその従業員を幻の国家目標に動員している国家総動員体制を全面的に解除することである。そして、兵士を家族のもとに帰し、企業を国策に縛られない自由な活動に向かわせることである。今日の世界に、これだけ巨大化した日本経済が資源を総動員して対抗しなければならないような競争相手が存在する筈がないのである。

つまり、ここでは分権と言うよりも、むしろ不用となった集権体制を廃棄し、企業とその従業員である個人を解放することが求められていると言えよう。


(3)占領行政の帰結−−−誇りの喪失

1945年の敗戦から7年間にわたり日本国民は連合国の占領下に置かれることになった。占領行政については一般に日本国憲法の制定や農地解放などに焦点が当てられてきた。

しかし、ここでは、もう一つの重大な事実を指摘したい。それは、連合軍総指令部(GHQ)が日本に君臨していた7年間、名目上は国権の最高機関であった国会が事実上機能停止状態にあったということである。非占領国の主権が制約されるのは、それ自体当然のことであるが、問題はそれによって何がおこったかということだ。

GHQの占領行政を実質的に代行していたのは当然ながら日本官僚機構であった。つまり、主権者を代表する国会が機能停止していた7年の間、行政官僚が立法府の機能を代行していたわけである。言い換えれば、この間、新生日本の国権の最高機関である国会は、新憲法によって与えられた強大な権力を行使するための訓練を受けることができず、代わって官僚がその運用法に習熟することになった。

そして、GHQが去った後、国家意志を発動する技術に習熟していたのは本来それを運用する資格のない官僚だけという状況が生じていた。そこで彼らは「超集権国家体制による対欧米列強戦争の遂行」という40年体制の国家意志をそのまま踏襲して戦後の経済戦争に臨んだのである。この第二次対列強戦争における戦果のめざましさについてはいまさら多言を要さない。それは、戦時下に形成されたインフラが戦後の経済発展の強力な基盤となった例として、ナチスドイツにおけるアウトバ−ンに比肩するものと言える。

しかし、このような「功」に対して、「罪」もまた小さくはなかった、それは占領下に確立された官僚による主権代行の変則体制が、ダイナミックに変化する国際情勢に対して日本が主権国家として適切に行動する能力を奪ってしまったことである。つまり、官僚は、それがいかに優秀であろうとも、体制の中での主権代行者である以上、体制そのものを時代環境に適応させていく当事者能力は持ちえなかったということである。

これを情報システムの世界にたとえれば、40年代の国家意志というソフトウェアが陳腐化し、90年代の課題に対応できなくなってしまったということである。そして、じつはこれとまったく同様の代行システムが企業社会においても形成されているのである。それは、40年体制下で進められた従業員主導の経営システムが戦後の財閥解体と経営者追放によって完成の域に達し、従業員代表が取締役として株主の支配権を代行することになったことであり、これが戦後の対列強経済戦争で華々しい戦果をもたらしたことは周知の事実である。つまり、これもまた戦時ソフトウェアが戦後の発展を支えたもうひとつの例ということができる。

しかし、これにもやはり大きな問題が残されている。それは、本来の所有者ではない従業員代表としての経営者は、経営の達人ではあっても、その成果をいかに使うべきかについては自ら決定する権限が無いということであり、その結果、今日にいたってもなお、多くの経営者は、戦時下に形成され戦後に引き継がれた対欧米列強経済戦争の経営理念を無意識に踏襲しているということである。

そこで何が起こるかと言えば、仮に個々の経営者がいかに高徳の人士であったとしても、その経営する企業は収益の無限追求以外の目的を掲げることができないという暴走現象が生じるわけである。その結果、かつて敵と想定した欧米列強から日本人の倫理感の欠陥として指弾されるにいたる。今日、どこの職場でも横行している「慈善事業じゃあるまいし」あるいは、「きれいごとを言うな」などというシニカルな物言いが、「実務家」としての有能さの証明になるというのはけっして健全な社会とは言えないであろう。私達はもっと悪びれずに慈善や正論を語るべきである。

以上に見てきたように、政治、経済の両面における代行システムの限界はいまや疑いの余地がない。そして、これに代わるシステムの設計にあたって不可欠の条件は、まず第一に、主権者が主権の運用に習熟した組織を自らの意志でコントロ−ルできるということである。けっして代行者の意志に委ねてはならない。そして第二には、現在、主権の大半を代行運用している中央官僚組織からの引き継ぎのプロセスが示されることである。

そして、最後に指摘しておきたいのは、このような新システムのコアとなるべき組織を現在の制度の中に求めるとすれば、それは市町村をおいては存在しないということである。なぜなら、今日の日本で自らの権利を自らの手で運用することに習熟してきた組織は基礎自治体である市町村のみだからである。

どのような制度をめざすべきか・・・

上述のように、今日の日本の行政システムは耐用年数の限界をこえており、放置すれば、早晩、劇的に崩壊することが予想される。そこで、ハ−ドランディングを回避し、混乱を最小限にとどめるためには、一刻も早くそれにかわる新システムを設計しなければならない。そして、そのめざすべき方向は、

郷土愛を基盤とするシステムであること、
個人生活の充実を優先するシステムであること、
主権者が自らの意志で運用しうるシステム

であることの三つである。

そこで、これらの条件を満たしうる行政システムとはどのようなものかについて、情報システム分野において主流になりつつある三つの原則、即ち、

開放的なシステムであること
顧客(利用者)の満足を最優先課題とするシステムであること
小回りのきくシステムであること

を念頭において考えてみたい。


(1)  競争的広域行政機構の構想−−−統治から経営へ

明治維新の廃藩置県にはじまる中央集権的同質化システムの非文化性と排他性を排除するためには、歴史的・地理的な共通体験にもとづく郷土愛によって結ばれる行政機構群を導入し、これらを相互に競争させることが望ましい。ただし、ここで言う競争とは顧客としての住民に対する行政サ−ビス競争である。

しかし、このような行政機構を中央政府主導で導入しても、それは従来の県の焼き直しに過ぎず、有効な競争は期待できないだろう。そこで、市町村の発意による共同行政事業体に県と同等の機能を委ねる競争的広域行政機構の制度化を提案したい。ここで競争的という意味は、この組織が県や他の事業体と行政サ−ビス競争するということと、相互に市町村の獲得競争を行うということの両者を指して言っている。前述の例で言えば、渡良瀬川流域の両毛五市とその近隣町村が共同行政事業体を設立し、群馬、栃木の両県と競争するという図式である。

この場合、共同行政事業体の設置には、市町村議会の議決、住民投票、そして国会議決いった慎重な手続きが必要だろう。市町村および新機構の準備スタッフはこの過程で、徹底的に力量を試されることとなる。しかし、いったんこれをパスした段階では、県と同格の行政機構として制度化され、参加市町村は県の干渉をうけることなく行動しうることとなる。このようなプロセスを導入することにより、いまや経済力と人口において平均的な国家のレベルをはるかに超えてしまった日本を多数の文化・経済圏に分割し、多様性ある開放的な社会に変えることができるだろう。

このプランの特長は、

市町村の主体的努力が要求されるので安易な計画は排除されること
競争者の出現により各県のサ−ビス向上への努力を促すこと
そして機の熟した地域から漸進的に、県(中央集権の遺制)から
 新機構(地方分権のパイオニア)への移行を進められること

さらに、いったん設置された新機構もたえず隣接機構との競争や全国レベル
 での格付けにさらされるので癒着や腐敗を排除することができることである。

以上を要約すれば、国家の中枢である中央官僚組織や基礎自治体である市町村の組織・機構を激変させることなく、中間地帯である県の領域を市町村に開放することにより、競争という市場原理によって地方分権、さらに地方主権への構造改革を達成しようとするものである。


(2)人材を何処に求めるか−−−新たなテクノクラ−トの誕生

競争的広域行政機構を実現するための最大の課題は、既存組織からの抵抗をいかにして排除するかということと、優秀な人材をどう確保するかということであろう。しかし、両者は基本的には同一の問題に帰着する。つまり、中央および県のキャリア組にとっては、要するに活躍の場が拡大するか縮小するかの問題であり、前者であれば結局は支持に回ると考えられる。

そう考える理由の一つとして、最近、中央のキャリア官僚が市長の補佐に招請されるケ−スが増えており、しかも、彼らが腰掛け意識を超えて市政に情熱を燃やしている例が少なくないことを指摘しておきたい。いまや、エリ−ト官僚にとって終着駅は地方統治者としての県知事だけではない。今後は地域に腰を据えた事業家的、あるいは経営者的行政官への道に魅力を感じる人々が輩出すると思われる。

そして、もう一つの人材供給源は団塊の世代を中心とする大企業のホワイトカラ−である。いまや、企業にとってこの世代の処遇は大問題になっているが、この世代のサラリ−マンは仕事人間の側面と家庭人の側面を合わせ持ち、また、その両立のために人一倍努力しているユニ−クな人々である。いわば、前述の三つの空洞化を自ら体験しつつ、それからの脱出を志向してきた世代と言えよう。それだけに、郷土の再構築を担う野心的な行政機構における実務遂行者の有力な供給源になるのではないだろうか。

おわりに・・・

日本の行政システムが耐用年数を超え、崩壊寸前にあることは、もはや明白であり、それは、一人々々の日本人が肌で感じている事実である。そして、これに代わるべき新システムは地域住民の郷土愛を基盤とすべきであり、また、中央集権国家の統治機構である県は主権者である地域住民主導の機構に置き換えるべきである。これが私の主張である。

そこで、残された課題は、志ある人々が新たなる行政機構づくりに立ち上がることだけである。私は、その日が遠くないと確信している。なぜなら、今日、日本社会のあらゆる分野で、かつてエリ−トとして期待された人々が閉塞状況からの脱出を求めているからである。

最後に、わが郷土両毛地区が一つの行政機構のもとに手をつなぐ日がくることを確信し、その一端をになうことを念願して結びとしたい。


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