祖父
益三郎
関口本家の次男として生まれた。次男でありながらなぜ三郎なのかは遂に聞きそびれたが、おそらく曽祖父菊三が、益次郎では彼の大村益次郎に失礼だと思ったからだろうと推測する。

明治30年代、東京に遊学して歯科医師の資格を取り、桐生町に歯科医院を開業するが、診療は程々にして『秋石』の雅号で書画骨董に勤しむ一方、曹洞宗の高僧 原田祖岳 老師来桐の折は、市内養泉寺にて参禅するという悠々自適の生涯をすごした。 昭和24年没。 享年70歳。

自らも友人達の求めに応じて何幅かの山水画を描いているが趣味の域を出ず、むしろ桐生に逗留する日本画家のパトロンとして、多くの画人と交流した。

この祖父の青年時代の逸話に藤村操の死をめぐる黒岩涙香との問答がある。
藤村操の死をめぐり天下をあげて一大論争が巻き起こり、黒岩涙香は、自ら主筆を務める万潮報の社説で 『・・自殺は悪なり・・・』 と断じたという。

東京遊学中の書生だった祖父は、これを読んで納得せず、涙香に面会を求めてその理由を問うたが、何一つ満足な返答を得られなかったと言う。 祖父はその後も聖書から老荘思想、西洋哲学まで渉猟し、終に曹洞禅に巡り合うことになる。 その間の遍歴は、私の中学時代、押入れの中から出てきた柳行李数籠の蔵書から窺うことが出来た。



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