体験的コンピュータ産業論

『経 友』(東京大学経済学部同窓会誌)No.144/1999.6 寄稿

 関口益照(東京情報大学教授)

 

 私は、安保騒動の昭和35年に入学し、東京オリンピックの昭和39年に経済学科を卒業しました。卒業後は縁あって31年間富士通?に勤務し、平成7年に現在の勤務先に移りました。富士通での31年間は、その大半をシステムエンジニア(SE)として過ごし、その間、コンピュータ産業の成長過程を技術者の立場で目撃することになりました。その体験の一端をご紹介することで会員諸兄姉のご参考になればと考え筆をとった次第です。

 縁あってと書きましたが、富士通への入社もSEになったのも予想外の成り行きの結果です。学生時代ほとんど名前も知らなかった富士通に入ることになったのは、内定先の富士電機から子会社の富士通信機製造(現富士通)へのトレードを提案されたからです。内定学生の過半は応じませんでしたが、私には、むしろ、子会社の事業内容の方が「エレクトロニクス産業の将来に賭けたい」という自分の志望動機にかなっていると思われました。幸い、この直感は数年を経ずして正しかったことが証明されました。

 富士電機への入社願書に「エレクトロニクス産業の将来に賭けたい」と書いたのは事実ですが、なにも自分自身が技術者になりたいなどと考えたわけではなく、配属希望欄には「総務部」と書いたのを記憶しています。SEなどという職種に至っては聞いたことすらなく、「データ通信技術部システム課」への配属と聞いたときは一瞬わが耳を疑いました。大学での専攻欄に数理経済学などと書いたのがまずかったかと後悔しながら出向いた配属先では、特攻隊生き残りとかいうY課長から、いきなり「君にはアプリケーションディベロップメントをやってもらう。いずれ君達の活躍する時代が来る」と言いわたされ、結局これが私のライフワークになってしまいました。

 今でこそ、アプリケーションといえば、応用ソフトあるいは業務用ソフトを意味するコンピュータ用語であることが常識になりましたが、昭和39年と言えばIBM社の360シリーズが鳴り物入りで登場した年で、専門家の関心は基本ソフト(OS)とハードウエアに集中していた時代です。アプリケーションという言葉の意味を正しく理解していた日本人はY課長を含めて数えるほどしかいなかったと思います。

 何も知らない私自身は、アプリケーションディベロップメントを応用開発と直訳して、こうなったら電子工学でも勉強するしかないなと腹をくくっていましたが、先輩社員からこれを頼むといって渡されたのは、何と月刊誌「銀行実務」の山でした。話を聞くと、Y課長を中心に銀行オンラインシステムの開発プロジェクトを発足させたのは良いが、アプリケーションをやれる人間が社内にいない。親銀行から実務のベテランをスカウトしたが、自分達はついていけない。君は経済学をやったのだからこういうのは得意だろう、ということでした。大学の講義に金融論はあったが銀行実務はなかったなどと理屈を言っても始まらないので、結局「はあ」と答えて仕事が決まった次第です。

 データ通信技術部の開発プロジェクトとして発足した銀行オンラインシステム事業が、その後、銀行業界の第1次から第3次にわたるオンライン化のブームに乗って富士通の中核事業の一つに発展する過程は、そのまま私自身の仕事の変遷と重なります。技術部から始まって、システム本部、商品企画部、システム企画部、そして、?富士通システム総研(現富士通総研)に至るさまざまな部署で、ハードウエアからアプリケーションに至るあらゆるタイプのシステムの企画・設計、コンサルティングに携わってきました。

 しかし、これらの期間を通じて、私自身はもとより、全てのSEが等しく抱き続けてきた一つの疑問がありました。それは、「SEとは何か」あるいは「SEは本当に必要か」という根本的な疑問です。この問題は、31年間におよぶ私のSE人生において、時には個人的問題として、また、時には全社的問題として、さらに、時には業界問題として取り組まざるを得ない難問題でした。情報処理教育の必要性が叫ばれ、情報処理技術者試験に受験者が殺到する今日でも、依然としてこの問題が解消したわけではありません。

 現に存在し、かつ、需要されているSEの存在理由がなぜ問われるかというと、日本のコンピュータ業界において、SEが長い間、必要悪と見なされてきたからです。かつて見られた典型的なケースでは、コンピュータを納入したメーカーはその時点で代金を請求しますが、ユーザーにとっては、ソフトが完成して稼動するまでは何の役にも立たない欠陥商品ですから支払う必要はないという論理になります。したがって、ソフトを完成するまでのSEの努力はお詫びの努力という性格を帯びてしまいます。一方,メーカー社内では、SEの技術や努力が足りないからいつまでも代金が回収できないという論理がまかりとおり、折にふれてSEレスシステム(SE無しで動くシステム)待望論が台頭します。

 IBMや富士通でソフト・サービス事業が中核事業になった今日でも、依然として、良いハードやソフトが開発されれば、あるいはエンドユーザーの情報リテラシーが向上すればSEが要らなくなるのではという懸念ないし願望が、時として噴出する事情に変わりはありません。このような懸念は、ソフト・サービス事業を専業とする情報サービス業界においては、業界そのものの存在理由に関わる大問題になります。現に、私も執筆に参加した情報サービス産業白書(94年版および95年版)では、コンピュータメーカーや家電メーカー、外資系ソフトベンダーに対抗するための業界アイデンティティの確立が課題となりました。

 30年以上に及ぶこうした自問自答を経て私なりに到達した結論は、「SEは半永久的に存在し、ソリューション産業を形成する。それは、コンピュータの技術特性 U=H+S+L に由来する」というものです。この式は、利用者にとっての効用(U)は、ハードウエア(H)、ソフトウエア(S)、および利用者自身のリテラシー(L)の3層によって規定されるという趣旨を感覚的に表現したものです。ここで重要なことは、利用者の要求する効用の水準(U)は量質ともにたえず上昇し続けるのに対して、ハードウエア(H)は単に量的な進歩を続けるだけで何ら新しい機能を提供しないということです。その結果、要求される効用とハードウエアが提供する効用の差(U−H)は拡大の一途を辿らざるを得ず、それはとりもなおさず、そのギャップの大きさに相当するソフトウエアおよび利用者リテラシーへの需要(S+L)を生み出し続けることを意味します。

 これは、ハードウエアがプラットフォームを提供し、その上でソフトウエアおよび利用者リテラシーがソリューション(利用者が要求する効用)を実現するという分業形態ですが、実際には、このソフトウエア自体、基本ソフトを第1層とする何階層ものプラットフォームから構成されているのが普通です。たとえば、私が関わったある都市銀行の第3次オンラインシステムでは5階層のプラットフォームの上に業務ソフトが乗っていました。

 したがって、プラットフォームとソリューションの分業は一本の水平線で静的に仕切られるようなものではなく、階段状あるいはメッシュ状に交錯し、しかもたえず新たな層を形成し続けているというのが実体です。このことは、コンピュータ産業において、いかなるプラットフォームやアプリケーションソフトもソリューション需要のほんの一部しか賄うことが出来ないことを示唆するもので、あのマイクロソフト社の米国情報サービス産業にしめるシェアが僅か数パーセントだという事実も驚くに当たりません。以上が、SEおよびソリューション産業の将来に関する我田引水的楽観論の要点です。

 この体験的コンピュータ産業論から見ると、マイクロソフト問題のほかにも騒ぎ過ぎではないかと思われることがいろいろ目につきます。たとえば、インターネット時代には英語が必須だなどというのはその最たるものです。むしろ、英語しか扱えないシステムでは世界に通用しないと考えるのが常識で、現実に起こっていることは急速な多言語化です。インターネットといえども利用者の要求を無視しては生き残れない以上、プラットフォームとソリューションの多様化が急速に進むことは疑いの余地がありません。

 情報家電を制する者がコンピュータ産業を制するなどというのも騒ぎ過ぎの一つです。そもそも家電メーカーはソリューション事業そのものに関心を持っているわけではなく、無限に増殖し続けるソリューションの中から家電のように標準化して大量生産できるものを探したいと思っているに過ぎません。特定のソリューションをめぐる角逐を産業全体の帰趨に関わるかのごとく語るのはいささか乱暴な議論ではないでしょうか。

 「コンピュータは用途を特定された時点でコンピュータではなくなる」これが私の体験的コンピュータ産業論の結論です。










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